秦・漢帝国
皇帝の出現と秦の統一
前221年、秦王の政が斉を倒して中国を統一し、「皇帝」の称号を初めて用いた。死後に始皇帝と呼ばれるこの人物は、中国史上初めて統一国家を実現した君主として、その後2000年以上続く皇帝政治の原型を作り上げた。
秦の強大化と統一
前4世紀に孝公が都を咸陽に移し、法家の商鞅を登用して富国強兵をめざす変法を実施した。法家思想による中央集権化の一環として郡県制が実施された。秦は遊牧民との接触から早くに鉄製武器や戦車を使用しており、軍事的優位を背景に他の六国を次々と征服した。
始皇帝の統一政策
始皇帝は法家の李斯の意見をもとに統一政策を展開した。全国を36の郡とその下の県に分けて中央から官吏を派遣する郡県制を全国に徹底し、貨幣(半両銭)・度量衡・文字(小篆、その後隷書)・車軌を統一した。思想統制として焚書・坑儒(前213~前212年)を行い、医薬・農業・占い以外の書物を焼き払い、数百人の儒者を生き埋めにした。北方の匈奴に対しては戦国時代の各国が造営した長城を修繕して万里の長城を完成させ、将軍蒙恬を派遣してオルドス地方から匈奴を排除した。南方には南海郡・桂林郡・象郡などを設置し、現在のベトナム北部まで支配を広げた。しかしこれらの外征・土木事業・宮殿建造が農民に過大な負担をかけ、各地で反乱が発生した。
秦の滅亡
前210年に始皇帝が死去すると(巨大な陵墓に兵馬俑が殉葬されたことで有名)、前209~前208年に中国最初の農民反乱である陳勝・呉広の乱が起きた。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉はこの反乱のスローガンであり、戦国時代以来の実力主義の世情と従来の身分制の否定を表している。前206年に秦は滅亡し、楚の名門出身の項羽と農民出身の劉邦が覇権を争った。前202年の垓下の戦いで劉邦が勝利し(「四面楚歌」の故事で有名)、前漢(漢)を建国して高祖として即位した。
漢代の政治
前漢から後漢にかけての約400年間(前202年~220年)、漢王朝は中国の統治の基本的な枠組みを確立した。その政治制度・儒学の官学化・東アジア国際秩序の形成は、後の中国史全体を規定する基盤となった。
高祖の統治と武帝の全盛
高祖(劉邦)は都の長安(現在の西安)を建設し、郡国制(皇帝直轄地には郡県制、地方には封建制を残す)を採用した。前154年の呉楚七国の乱では第6代景帝が諸侯の反乱を鎮圧し、実質的な中央集権体制を確立した。前141~前87年に在位した第7代武帝の治世に前漢は全盛期を迎えた。推恩の令によって諸侯の領地を細分化して勢力を弱体化させ、積極的な外征政策を展開した。匈奴に対しては衛青・霍去病を遠征させ、張騫を大月氏に派遣して挟撃を試みた。その成果として漢の勢力はタリム盆地のオアシスにまで及び、河西回廊に河西4郡(武威・張掖・酒泉・敦煌)を設置した。さらに中央アジアの大宛(フェルガナ)にも遠征軍を送った。前108年には朝鮮の衛氏朝鮮を滅ぼして楽浪郡など4郡を置き、前111年には南越を滅ぼして南海9郡を置いた。
武帝の財政政策と儒学の官学化
積極的な外征が財政を圧迫したため、武帝は塩・鉄・酒の専売制を実施して利益を確保した。均輸法(特産物を貢納させ不足地域に転売する物価調整)と平準法(政府が物価を調整する政策)を推進した(財政再建家の桑弘羊が実務を担った)。通貨は五銖銭に統一された。官吏登用には郷挙里選が採用され、地方長官が優秀な人材を中央に推薦する方式であったが、推薦を受けた豪族の子弟が多く官界に進出した。董仲舒の献言により儒学の官学化が行われ、五経博士が置かれて太学で経学が教えられた。
漢の衰退から新王朝と後漢へ
武帝の死後、宦官(皇帝に仕える去勢された男子)と外戚(皇帝の母の出身氏族)の権力争いが激化して政情が不安定になった。豪族への土地集中を制限しようとする限田策は哀帝が発布したが、豪族の反対で実施に至らなかった。紀元後8年に外戚の王莽が漢を廃して新王朝を建てた。儒教の理想として周代の制度の復活をめざしたが、現実に合わない改革が農民・豪族の反乱を招き、18~27年の赤眉の乱によって滅亡した。25年に漢の一族の劉秀(光武帝)が漢を復興させ(後漢)、都を洛陽に置いた。後漢では166年と169年に宦官による党人弾圧(党錮の禁)が起こり、184年には太平道の指導者張角が黄巾の乱を起こした。各地で群雄割拠状態となり、後漢は曹丕によって220年に滅亡した。
漢代の社会と文化
漢代は中国の文化的基盤が整備された時代でもある。儒学・歴史学・科学技術など多方面にわたる成果が蓄積され、後の中国文明の方向性を決定づけた。
儒学と文化の発展
武帝による儒学の官学化を経て、五経(「易経」「書経」「詩経」「礼記」「春秋」)が国家の基本的な価値体系として確立された。後漢では訓詁学(儒教経典の字句解釈)が盛んになり、鄭玄・馬融などが代表的な儒者として活躍した。製紙法は宦官の蔡倫が改良したとされ、竹簡・木簡に代わって普及した(751年のタラス河畔の戦いで西方に伝来)。文字の改良では隷書がつくられ、後漢末には楷書・行書・草書も用いられた。後漢の許慎は字書「説文解字」を編纂した。歴史書では前漢の司馬遷が紀伝体の「史記」を著し(宮刑に処されながら完成)、後漢の班固が「漢書」を著して以後の正史の手本となった。宗教結社として太平道(張角)と五斗米道(張陵)が広まり、後漢の明帝の時代に仏教が中国に伝来した。
東アジアの国際秩序と対外交流
前漢の張騫は武帝によって西域に派遣され、大月氏まで到達した。匈奴挟撃の目的は果たせなかったが、西域の事情が漢に知られてシルク=ロードによる交易が盛んになる契機となった。後漢の班超は西域経営にあたり、部下の甘英を大秦国(ローマ帝国)に派遣しようとしたが、甘英はシリアで引き返した。166年には大秦王安敦(マルクス=アウレリウス=アントニヌス)の使節が日南郡を訪れたとされる。朝鮮半島では楽浪郡などの4郡が東アジア支配の拠点となり、57年には倭人の奴国王が後漢に朝貢して光武帝から金印を授けられた(「漢委奴国王」印として発見されている)。ベトナムでは前漢の武帝の支配の下で徴姉妹の反乱が起きた。こうした周辺諸国との関係は冊封体制として体系化された。中国皇帝が周辺諸国の首長に官位や王号を与えて従属的な君臣関係を結ぶこの仕組みは、その後清朝まで東アジアの国際秩序の基本として機能した。
まとめ
この単元で学んだ秦・漢帝国の歴史は、現代の「中国」という概念そのものの起源を示している。「秦」は英語のChinaの語源となり、「漢」は中国全般を指す語となった。始皇帝が確立した中央集権的な皇帝支配と郡県制、武帝が官学化した儒教による統治は、清朝まで約2000年間にわたって中国の基本的な政治体制として継続した。また冊封体制は日本・朝鮮・ベトナムの歴史にも深く関わる国際秩序の枠組みであり、日本が金印を受け取ったことは弥生時代の日本が既に東アジアの国際秩序に組み込まれていたことを意味する。「中国の歴史」として他人事のように学ぶのではなく、日本史と世界史が重なり合う交点として捉える視点が、この単元を生きた知識として理解する鍵となる。
- 山川『詳説世界史研究』
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