秦・漢帝国
秦・漢帝国の成立によって、皇帝が官僚を通じて広い領域を治める仕組みが形づくられた。秦は統一を急ぐなかで重い負担と反発を招き、短期間で滅んだ。漢はその制度を受け継ぎながら地方勢力との関係を調整し、儒学を統治に取り入れた。皇帝の権力、地方社会、周辺諸国との関係をつなげて理解しよう。
「皇帝」の出現
戦国時代の王は、複数の国が争う世界の一国の支配者だった。秦王政が称した皇帝は、その諸国を統合した領域の最高支配者である。この違いを実際の政治に表したのが、官吏の派遣と制度の統一だった。
秦の強大化
前4世紀、秦の孝公は商鞅を登用し、咸陽へ都を移した。商鞅の変法は、法家の考えにもとづいて賞罰や行政制度を整え、富国強兵を進める改革だった。人々や土地を国家が把握し、税や兵役を確保することで、君主の命令が地方に届きやすくなった。中央から任命された官吏に地域を治めさせる制度も、統一後の郡県制につながった。
秦は西方・北方の諸集団との接触を重ね、軍事と行政の組織を発達させた。ただし、その優位を「鉄製武器や戦車を他国より早く用いたから」とだけ説明することはできない。戦車は秦の強大化より前から使われていた。改革によって生産と動員を支える仕組みを整えた点が重要である。
秦の始皇帝
前221年、秦王政は最後に斉を倒して六国の統一を完成させ、咸陽を都とした。政は新たに「皇帝」という称号を定め、自らを最初の皇帝、すなわち始皇帝とした。「始皇帝」は死後にはじめて与えられた呼び名ではない。後継者にも二世・三世と帝位が続くことを構想していた。
李斯らの意見を取り入れた始皇帝は、郡県制を全国へ広げた。統一当初は36郡とされ、その下に県を置き、中央が任命する官吏に統治させた。領土を世襲の諸侯に任せる方式と比べ、任免権を持つ皇帝に権力が集中する。征服地の旧支配層にとっては自立性を奪われる改革でもあった。
貨幣は半両銭、文字は小篆を基準とし、度量衡と車軌も統一した。度量衡は長さ・容量・重さの基準、車軌は車輪の間隔である。税を計算し、命令を伝え、物資を運ぶ際の地域差を小さくすることが、巨大な国家を動かす条件となった。実務では書きやすい隷書も用いられ、秦漢期を通じて発達した。
前213年の焚書では、民間の『詩』『書』や諸子の書などが処分の対象になった。ただし、博士官の所蔵や医薬・農業・占いなどの書物には例外があり、実用書以外のすべてが消されたという意味ではない。前212年の坑儒は、多数の儒者・方士らを処刑したと『史記』が伝える事件である。対象者の性格や具体的な実態には議論があるが、両者は秦の思想統制を示す出来事として扱われる。
北方では将軍蒙恬がオルドス地方から匈奴を退け、戦国諸国の長城を修築・連結した。これが秦代の万里の長城であり、現在よく知られる明代の長城とは区別する。南方では嶺南に南海郡・桂林郡・象郡を置いた。象郡の範囲には議論があり、現在のベトナム北部まで秦の支配が確実に及んだとは断定しにくい。
渭水南岸の阿房宮の造営や始皇帝陵の建設、遠征と長城工事には多くの人手と物資が必要だった。農民は農作業に加えて租税や労役を負担する。中央集権の仕組みは大規模な動員を可能にしたが、その動員が過重になれば生活を圧迫し、反乱の原因にもなった。
秦の滅亡
前210年に始皇帝が死去すると、後継をめぐる政治の混乱が起こった。陵墓に付属する兵馬俑坑には、軍隊をかたどった多数の陶製の人形と馬が置かれた。兵馬俑は、兵士本人を生きたまま葬ったものではない。
前209年、陳勝・呉広の乱が始まった。前208年にかけて指導者たちは倒れたが、反乱は各地へ広がった。中国史で最初の大規模な農民反乱として知られる。「王侯将相いずくんぞ種あらんや」という言葉は、王・諸侯・将軍・宰相になる資格が特定の血筋だけにあるのか、という問いかけである。戦国時代以来の実力重視の風潮が読み取れるが、近代の平等な権利をそのまま主張した言葉ではない。
前206年に秦が滅びると、楚の名門出身の項羽と、農民の出身で地方の下級役人も経験した劉邦が争った。前202年、垓下の戦いで追い詰められた項羽は敗れた。敵軍から楚の歌が聞こえたという「四面楚歌」の故事は、この局面に由来する。劉邦は皇帝に即位し、漢の高祖となった。劉邦が漢王となった前206年を漢の始まりとする数え方もあるため、前202年は皇帝即位・天下統一の年として押さえる。秦の崩壊後、嶺南では秦の官人だった趙佗が南越を建てた。
漢代の政治
漢の支配体制は、地方の諸侯を利用する郡国制から、皇帝の統制を強める方向へ変化した。武帝の時代には領域が拡大したが、その費用を支える財政政策と地方社会への負担が新たな課題になった。
高祖の統一政策
高祖は長安を都とし、皇帝の直轄地に郡県制を敷く一方、地方には諸侯の国を残す郡国制を採用した。統一戦争に協力した勢力を処遇し、広い領域を統治するための現実的な選択だった。しかし、諸侯が独自の財政や軍事力を持てば、皇帝の命令に抵抗する余地も残る。
景帝が諸侯の領地削減を進めると、前154年に呉楚七国の乱が起きた。景帝はこれを鎮圧し、諸侯の統治権を弱めた。以後、中央集権化は進むが、諸侯の国がすぐにすべて消えたわけではない。
対外関係では、冒頓単于のもとで強大化した匈奴に高祖が敗れた。漢は贈与などを伴う和親関係を結んで衝突を避けた。建国直後の漢には、国内の復興と北方での大規模な戦争を同時に進める余力が乏しかったのである。
武帝の統治
武帝は前141~前87年に在位し、前2世紀後半から前1世紀初頭に漢の勢力を大きく広げた。国内では推恩の令によって、諸侯が領地の一部を子弟へ分けることを認めた。恩恵を与える形をとりながら大きな領国を細分化し、諸侯の力を弱める政策だった。
北方では衛青・霍去病を派遣して匈奴を攻撃した。また張騫を大月氏へ送り、匈奴を東西から挟撃する同盟を求めた。大月氏との軍事同盟は実現しなかったが、張騫が持ち帰った情報によって漢は西域の事情を詳しく知った。軍事行動と西域への接近を通じて、河西回廊に武威・張掖・酒泉・敦煌の河西4郡を設けた。西端の敦煌はタリム盆地方面へ向かう要地となった。さらに良馬である汗血馬を求め、李広利を大宛、現在のフェルガナ方面へ遠征させた。
前108年には、衛満を建国者とする衛氏朝鮮を滅ぼし、楽浪郡・真番郡・臨屯郡・玄菟郡の4郡を置いた。前111年には南越を滅ぼし、南海郡・交趾郡・日南郡など9郡を設置した。交趾郡は現在のハノイを含む北部ベトナム、日南郡はその南方にあたる。北・西・東・南へ勢力を伸ばすことで、漢は多様な地域や住民を統治する帝国になった。
外征は軍隊の維持や物資の輸送に巨額の費用を必要とした。そこで塩・鉄、さらに酒の専売を行い、国家が収益を確保した。桑弘羊が推進した均輸法は、地方の貢納物などを国家が輸送・売却し、物資の偏りと輸送の負担を調整する制度である。平準法は、価格が低いときに政府が買い、高いときに売って、価格の変動を抑えながら収益を得る仕組みだった。
五銖銭の鋳造と国家による貨幣発行の統制も進められた。増税や売位・売官は収入確保に役立ったが、人々の負担や官僚登用のあり方に問題を残した。国家の介入は財政を支える一方で、民間の生産者や商人の利益と衝突する面も持っていた。
官吏登用では、地方長官が地域の有能・有徳な人物を中央へ推薦する郷挙里選が発達した。地域で教育を受ける余裕と人脈を持つ豪族の子弟は、推薦を得やすかった。皇帝は人材を得ることができたが、地方の有力者が官界へ進出する経路にもなった。
董仲舒の提言などを背景に、武帝は儒学を国家の教育と官吏養成の中心に据えた。これが儒学の官学化である。五経博士の設置は一般に前136年、太学の整備は前124年とされる。ただし、五経博士がいつ一つの制度として成立したかには研究上の議論があり、宣帝期の整備を重視する見方もある。儒学が重んじられても、法令や官僚機構による統治は続いた。
漢代の画像石は、墓室や祠堂などに人物・神話・車馬の行列を刻んだ石材である。有力者の生活や、死後の世界に対する考えを知る手がかりになる。
漢の衰退
武帝の死後も前漢は続いたが、土地の集中や官吏の不正、宮廷内の勢力争いが問題となった。豪族は土地と従属する人々を増やし、地方で影響力を強めた。哀帝の時代には土地・奴隷の所有を制限する限田策が検討されたが、有力者の反対などで実施されなかった。
外戚とは、皇帝の母や皇后の一族など、婚姻関係を通して皇室につながる親族である。宦官は、去勢されて宮廷に仕えた男性を指す。両者は皇帝の近くで権力を得たが、前漢末にはとくに外戚の伸長が重要であり、外戚と宦官の激しい抗争は後漢後半の特徴として整理するとよい。
新の建国
外戚の王莽は漢の皇帝の地位を奪い、新を建てた。中国暦と西暦の対応により8年と記す資料もあるが、西暦では9年を建国年とするのが一般的である。王莽は儒学で理想視された周代の制度を復活させようとし、土地や貨幣などを改革した。しかし、実情に合わない制度変更は取引や生活を混乱させ、災害や社会不安も重なった。
18年に始まった赤眉の乱など、農民・豪族の反乱が広がり、23年に新は滅んだ。王莽を倒したのは緑林軍系の勢力で、赤眉軍だけが新を滅ぼしたわけではない。赤眉軍はその後も活動し、27年に光武帝へ降伏した。新の滅亡年と反乱の終結年を区別する必要がある。
後漢の成立
25年、漢の一族である劉秀が光武帝として即位し、漢を復興した。都を洛陽に置いたこの王朝を後漢と呼び、それ以前の長安を中心とした漢を前漢と呼ぶ。後漢は豪族の協力を得て成立したため、地方の有力者は王朝を支えると同時に、独自の勢力を維持した。
後漢後半には外戚と宦官の争いが激しくなった。166年と169年の党錮の禁では、宦官を批判した官僚・知識人らが弾圧され、官界から排除された。184年には、張角が率いる太平道の信徒が黄巾の乱を起こした。生活不安のなか、宗教結社は人々を結びつける力を持った。五斗米道も、張陵を祖とする宗教運動として広まった。
反乱の鎮圧では各地の有力者が軍事力を増し、群雄割拠へと進んだ。220年、曹丕が皇帝から帝位を譲らせ、後漢は滅亡した。中央が反乱を抑えるために地方勢力へ頼るほど、その勢力の自立を促すという問題が現れたのである。
漢代の社会と文化
統一国家は、地域を結ぶ行政・交通の仕組みを整え、知識や文化の共有を促した。一方、学問や官職への接近には社会的な差があり、豪族の経済力と文化的な影響力は結びついていた。
豪族
豪族は広い土地を所有し、奴隷や小作人を使って経営する地方の有力者だった。小作人は他人の土地を耕して地代を納める人であり、奴隷と同じ身分ではない。豪族は経済力を背景に教育や人脈を蓄え、郷挙里選を通じて官職へ進出した。土地・地域社会での信用・官職が互いを強める関係にあった。
儒学の保護
儒学は礼や徳を重視し、家族や君臣の関係に秩序を与えようとした。武帝の保護によって経典を学ぶことが官吏養成と結びついた。五経は『易経』『書経』『詩経』『礼記』『春秋』として整理される。ただし漢代の「礼」の経典・学派を、現在の『礼記』だけと完全に同一視することはできない。
前漢末には劉向が古い文献の校訂・整理・分類を進めた。儒学でいう古文は古い字体で伝わった経典などを指し、単に古い文章という意味だけではない。後漢では、経典の字句の意味を明らかにする訓詁学が発達し、馬融や鄭玄が活躍した。共通の経典を正しく解釈することが、学問と統治の双方で重視された。
製紙法
文書には竹簡・木簡のほか、帛と呼ばれる絹布も使われた。竹や木はかさばり、絹は高価である。紙自体は前漢から存在し、後漢の蔡倫は製紙法を改良・普及した人物として知られる。紙が広まる過程でも、竹簡や木簡はすぐには消えなかった。
製紙技術はしだいに西方へ伝わった。751年のタラス河畔の戦いはその伝播に関わる出来事として知られるが、技術の移動全体を一度の戦いだけで説明することは避けたい。文字では隷書が発達し、漢代からその後にかけて草書・行書・楷書へつながる書体が整っていった。許慎の『説文解字』は、文字の形や成り立ちを体系的に説明した字書である。
歴史書・詩集の編纂
前漢の司馬遷は、古代から自分の時代までを扱う『史記』を著した。武帝に仕え、宮刑を受けた後も執筆を続けたことで知られる。『史記』は皇帝の事績を記す本紀、人物を扱う列伝、年表である表、制度を扱う書、諸侯などを扱う世家を組み合わせた紀伝体の歴史書である。
後漢の班固が編纂した『漢書』は前漢一代を扱い、後に班昭らが補って完成した。制度の記述は「志」と呼ばれ、以後の王朝ごとの正史の手本になった。紀伝体は人物や分野ごとに歴史を捉えるのに適している。これに対し編年体は、出来事を年月日順に並べ、時間的な前後関係を追いやすくする書き方である。
『楚辞』は屈原や宋玉らの作品を収める韻文集で、楚の文化を伝える。『塩鉄論』は武帝の死後に行われた専売政策などをめぐる討論を伝え、国家の財政と民衆の生活をどう両立させるかという対立を知る資料になる。
宗教結社の成立
太平道は張角を中心に河北・河南・山東などで広まり、五斗米道は四川・陝西方面で発展した。病気の治療や共同体の活動を通して人々を結びつける宗教は、生活を支えるとともに、大規模な社会運動の基盤にもなった。
科学技術では、張衡が天球の運動を示す器械や地震を感知する器械で知られる。仏教は漢代に西域などを経由して中国へ伝わり、後漢には受容と翻訳が進んだ。明帝の時代の伝来説は有名な伝承だが、伝来を単一の年や一度の出来事に限定することは難しい。
秦漢帝国
秦漢帝国は、皇帝を頂点とする官僚制によって多くの地域と民族を統治した。漢代には儒学もその秩序を支えるようになった。皇帝・官僚制・儒学の組み合わせは、制度を変えながら清朝まで長く受け継がれたのであり、約2000年間まったく同じ仕組みが続いたわけではない。
「漢」は漢字・漢語・漢人など、中国の文化や人々を表す語に残った。「秦」をChinaの語源とみる説もあるが、語源は確定していない。王朝の政治的な寿命と、その名前や制度が後世へ及ぼす影響の長さは異なる。
中国と世界とのつながり
張騫の西域派遣は大月氏との同盟には結びつかなかったが、西域の情報と外交関係を広げ、シルク=ロードによる交易の発展に寄与した。交易路は一筋の道ではなく、オアシスや都市をつなぐ複数の経路だった。
後漢の班超は西域経営を進め、和帝の時代に西域都護となった。多くの国が漢と関係を結んだという記録はあるが、カスピ海以東の全域を漢が直接統治したことを意味しない。班超が97年に派遣した甘英は大秦国、すなわちローマ帝国への到達をめざしたが、到達しなかった。到達した条支国や大海の比定には、シリア・地中海方面とする説やペルシア湾方面とする説があり、引き返した地点を一つに断定することは難しい。
166年には、大秦王安敦の使者を名乗る一行が日南郡方面から到来したと記録される。安敦はマルクス=アウレリウス=アントニヌスにあたるとされるが、ローマ皇帝の正式な外交使節だったか、交易者だったかは確定していない。遠方からの来訪記録と、近代的な国家間外交とをそのまま同一視しないことが大切である。
アジアの国際秩序の形成
朝鮮半島では楽浪郡などが大陸と周辺地域を結ぶ拠点になった。後漢末には公孫氏が楽浪郡南部を分けて帯方郡を置いた。周辺には高句麗、馬韓、辰韓などがあり、北方では鮮卑も勢力を強めた。郡の直接統治と、周囲の政治集団との交渉は別の形の関係である。
57年、倭の奴国王が後漢へ朝貢し、光武帝から印綬を授けられたと伝えられる。福岡県の志賀島で見つかった「漢委奴国王」の金印は、この記録と結びつけられている。北部九州では弥生時代に政治集団が発達していたが、奴国との関係を当時の日本列島全体への支配と考えてはいけない。
ベトナムでは、前漢の武帝による南越征服の後も中国王朝の支配への抵抗が続いた。徴姉妹の反乱は前漢の武帝時代ではなく、後漢の40年に始まり、43年に鎮圧された。郡を置くことが、その地域の安定した服従を直ちに意味するわけではなかった。
朝貢は周辺の首長らが使者や貢納品を送る行為で、皇帝は官爵や王号、印綬などを与えた。このように皇帝と周辺の支配者が君臣関係を結ぶ仕組みが、後世にいう冊封関係の基礎となる。周辺の首長も王号や贈与、交易の機会を利用して、自らの立場を強めようとした。漢代を完成した一様な冊封体制とみなすより、地域ごとに異なる関係の形成期として理解するとよい。
咸陽・長安・洛陽という都の移動、匈奴・大月氏・大宛との位置関係、南海郡・交趾郡・日南郡・楽浪郡の配置を地図で確かめると、皇帝による統合がどの方向へ広がったかを読み取れる。政治制度の変化と人・物・知識の移動が、秦漢帝国を理解する二つの軸である。