第2章 中央ユーラシアと東アジア世界

10_中国の動乱と変容

中国の動乱と変容

動乱の時代

後漢末から隋の統一(589年)に至るまでの約400年間は、三国時代・西晋・五胡十六国・南北朝という激動の時代であった。この時期は魏晋南北朝時代と総称される。王朝の興亡が繰り返されるなかで、北方民族の文化と漢民族の文化が融合し、仏教・道教・新たな文学が花開いた。

三国時代と西晋の統一

後漢が黄巾の乱によって弱体化すると、華北の曹操、江南の孫権、四川の劉備が台頭した。208年の赤壁の戦いで曹操が孫権・劉備の連合軍に敗れ、天下三分の形勢が固まった。220年に曹操の子曹丕が帝位につき魏(都:洛陽)を建国すると、孫権が江南に呉(都:建業)を、劉備が四川に蜀(都:成都)を建国して三国が鼎立した。263年に魏が蜀を滅ぼし、265年に魏の武将司馬炎が禅譲を受けて西晋を建国した。280年に呉を滅ぼして中国を統一したが、290年から306年の八王の乱(司馬氏一族の内紛)によって西晋は急速に弱体化した。

五胡十六国と東晋

八王の乱の際、各諸王が五胡(匈奴・羯・鮮卑・氐・羌)を傭兵として使ったことで、北方民族が中国内地に侵入した。304年に南匈奴の劉淵が山西で挙兵し、311年(永嘉の乱)に匈奴が洛陽を攻略、316年には長安も陥落して西晋が滅亡した。華北には16の王朝が交代する五胡十六国時代(304~439年)が始まった。この動乱のなかで遊牧民の習慣(粉食や椅子など)が華北に広がった。317年には晋の一族司馬睿が江南に逃れて東晋を建国し、華北から多くの漢人貴族・農民が長江下流の江南に移住して農業開発が進んだ。この時代、ユーラシア東部の動乱と、西部でのフン人の西進によるゲルマン民族の大移動が同時に進行した民族大移動の時代であった。

南北朝時代

五胡十六国時代を経て、鮮卑の拓跋氏が有力となり386年に拓跋珪が北魏を建国した。398年に平城を都として部族制を廃止し漢人の統治機構を導入した。439年に太武帝が華北を統一し、道教を国教として一時的に仏教を弾圧した(廃仏)。次の文成帝は仏教保護に転じ、雲崗に石窟寺院を造営した。494年に孝文帝が都を洛陽に移し、竜門に石窟寺院を造営した。孝文帝はまた均田制(土地の公有制度で農耕民社会の安定をめざす)、三長制(5家を隣・5隣を里・5里を党とする村落制度)、漢化政策(制度・服装・言語を漢民族風に改める)を推進した。漢化政策への反発から六鎮の乱が起こり、538年に北魏は東魏と西魏に分裂した。西魏では府兵制(中央軍と地方軍の一体化)が始まった。東魏は北斉に、西魏は北周に交代し、577年に北周が北斉を併合して華北を統一した。581年に北周の武将楊堅が帝位を奪って隋を建国した。南朝では420年に東晋の武将劉裕が宋を建国し、宋・斉・梁・陳と漢民族の王朝が続いた(都はいずれも建康=現在の南京)。貴族の勢力が強く皇帝権力は弱かったが、長江流域の開発が進んで生産力が発展し、人口も増加した。589年に隋が陳を滅ぼして中国を再統一した。

魏晋南北朝の社会と文化

この時代の社会的変容と文化的創造は、後の中国文明の多くの要素を生み出した。貴族の形成、仏教の普及、道教の確立、独自の文学・芸術の発展がこの時代の特徴である。

貴族階級の形成と土地制度

後漢末から豪族の力が強まり、官吏登用制度が郷挙里選から九品中正法に転換した(三国の魏が導入)。中正官が人物を九等級に分けて推薦する制度は「上品に寒門なく下品に勢族なし」という言葉が示すように、豪族が上級官僚を独占する門閥貴族の形成につながった。土地制度については、曹操が屯田制(富豪が官有地を集団で耕作させる制度)を実施し、西晋は占田・課田法と戸調式(一戸ごとに絹などを納める税制)を採用した。北魏の孝文帝は均田制を定め、これが隋・唐に継承された。

仏教の流布と石窟寺院

仏教は後漢の1世紀頃に大乗仏教が西域を通じて中国に伝えられ、4世紀後半の動乱・政治的不安定のなかで社会一般に広まった。西域のクチャ出身の仏図澄が310年に来朝して洛陽で仏教の民間普及に貢献し、その弟子の道安が戒律を整備した。東晋の慧遠は江南で浄土宗の源流となる白蓮社を結成し、阿弥陀信仰(西方浄土への往生を祈願する)を広めた。法顕は399年から412年にかけてインドへ渡り「仏国記」を著した。クチャ出身の鳩摩羅什は5世紀初めに長安で仏典の翻訳を進めた。石窟寺院は敦煌(4世紀から唐代に及ぶ、莫高窟)・雲崗(文成帝)・竜門(孝文帝)に造営された。北朝では国家仏教として護国の宗教に発展し、南朝では貴族の個人的信仰を中心とした学問仏教として発展するという違いが生まれた。

道教の成立と貴族文化

5世紀に北魏の寇謙之が民間信仰・神仙思想・老荘思想を取り入れた五斗米道を改革し、新天師道(道教)を形成した。太武帝に信任されて442年に北魏の国教となった。道教は不老不死と現世の利益を説いて民衆に浸透した。魏・西晋の時代には竹林の七賢に代表される儒教的道徳の否定と自由な生き方を求める風潮が生まれ、老荘思想の影響を受けた自由な議論(清談)が貴族の間で流行した。東晋の陶淵明(陶潜)は「桃花源記」「帰去来辞」などで理想的な田園生活を謳い、書道では王羲之が「蘭亭序」を著して「書聖」と呼ばれた。絵画では顧愷之が「女史箴図」で知られ「画聖」と称された。建康を都とした六朝文化では昭明太子が「文選」を編集し、四六駢儷体(対句を用いた華麗な文体)が流行した。学術面では陳寿が「三国志」を、酈道元が地理書「水経注」を、賈思勰が農業技術書「斉民要術」を著した。

朝鮮と日本の国家形成

中国の分裂や周辺民族の自立は東アジア世界に大きな影響を与え、朝鮮半島と日本列島における国家形成を促した。中国の冊封体制(中国の皇帝が周辺諸国の国王に官職を与えてその支配権を承認する国際秩序)は19世紀まで東アジアの基本的な国際秩序として機能した。

朝鮮半島の国家形成

前1世紀に半島北部で高句麗がおこった。313年に高句麗が南下して楽浪郡を滅ぼし、427年に都を平壌に移した。半島南部では三韓(馬韓・辰韓・弁韓)が分立していたが、4世紀半ばに辰韓では新羅が(都:金城=慶州)、馬韓では百済が(都:漢城)それぞれ統一し、弁韓には加羅諸国が分立した。三国時代(4~7世紀)には三国が中国王朝に朝貢して仏教・儒教を受容した。

日本列島の国家形成と東アジア秩序

日本列島では弥生時代中期から国家形成が進んだ。3世紀には邪馬台国の女王卑弥呼が魏に朝貢したことが「魏志倭人伝」に記されている。4世紀にはヤマト政権による統一が進み、4世紀末に広開土王(好太王)の高句麗が半島を南下し、百済・倭とも戦った。5世紀には倭の五王(讃・珍・斉・興・武)が中国の南朝に朝貢した。日本は渡来人から漢字・仏教・儒教・道教などの中国文化を伝えられ受容した。こうして弥生時代の日本は既に東アジアの国際秩序(冊封体制)に組み込まれていたことがわかる。

まとめ

この単元で学んだ魏晋南北朝の約400年間は、中国史上最大の分裂・動乱期であったが、同時に文化的に最も多様で豊かな時代でもあった。北方民族の流入によって漢民族の文化は変容を余儀なくされたが、その過程で仏教が定着し道教が成立し、詩・書・絵画の芸術が花開いた。均田制・府兵制という後の隋唐を支える制度もこの時代に生まれた。「動乱の時代は同時に創造の時代である」という逆説を、この単元は具体的に示している。また日本・朝鮮の国家形成がこの時代の東アジア世界の動きと連動していたことは、「日本の歴史」と「世界の歴史」が切り離せないものであることを示している。あなたが今使っている漢字・日本語の成り立ちには、この動乱の時代に生み出された文化がどのように関わっているだろうか。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-05
参考資料・一次情報
  • 山川『詳説世界史研究』
  • 山川『世界史図録』
  • 各分野の教科書・資料集・一次資料