第2章 中央ユーラシアと東アジア世界

09_秦・漢帝国

要点解説 資料集

秦・漢帝国

新たに現れた「皇帝」は、それまでの「王」とどのように異なるのだろうか?

「皇帝」の出現

 の強大化

  前4世紀:は都をに移し、法家のを登用

   法家の思想による富国強兵をめざした変法の実施

    →中央集権化

     e.g.の実施

  他の六国を次々と征服

   背景:遊牧民との接触 

    →早くからを使用

 秦の始皇帝

  前221年:秦王のを倒して中国を統一(都:

   はじめてを称する

    死後にはと呼ばれる

   

  統一政策

   の意見をもとに展開される

   渭水南岸に新たな宮殿としてを建設

   

    全国を36の郡とその下の県に分けて、中央から官吏を派遣する中央集権体制

    →各地の豪族を服属させる中央集権体制の強制により、地方豪族の反発がおこる

   ・車軌の統一

    貨幣:  文字:(簡略体が隷書)

   (前213~前212年)

    思想統制策

    の関連書以外の書物が焼き払われた

    :数百人のなどが生き埋めにされた

   の修繕

    戦国時代の各国が造営したものを修築

    北方のに対する対抗策

   南方遠征

    現在の広西省、広東省からベトナム北部にかけてを設置

     ほかにもなど3郡を設置

   将軍を派遣し、からを排除

   →外征・土木事業・宮殿建造などの負担に対して農民が反発し、各地で反乱が発生



 秦の滅亡

  前210年:始皇帝の死

   ※巨大な陵墓にを殉葬

  (前209~前208年)

   中国最初の農民反乱

   「

    王や諸侯などになるのに生まれは関係ない

    戦国時代以来の実力主義の世情を表している

     →従来の身分制の否定

  前206年:秦の滅亡

   楚の名門出身のと農民出身のが覇権を争う

    前202年:垓下の戦い

     cf.四面楚歌

  前202年:を建国し、初代皇帝として即位

  嶺南地域では漢人のを建国

 


漢の支配体制は、どのように変化していったのだろうか?

漢代の政治

 の統一政策

  前202年:高祖が即位し、都の(現在の)を建設

   :皇帝直轄地にはを実施し、地方ではを残す

  前154年:

   皇帝権力強化に対する諸侯の反乱を鎮圧

   第6代によって鎮圧される

    →実質的にによる中央集権体制を樹立

  のもとで強大化したに敗れる

   多額の貢ぎ物を贈るという屈辱的な講和を結ぶ

 の統治

  前141~前87年に在位

   前2世紀後半~前1世紀初頭に全盛期を迎える

  

   諸侯の子弟すべてに領地を分け与えることを認める

   諸侯たちの勢力を弱体化させるために出された

  外征

   に対する強硬策

    将軍による遠征

     に派遣

      と同盟を結んで挟撃

       →漢の勢力がタリム盆地のオアシスにまで及ぶ

        河西回廊に河西4郡(西端が)を設置

         

         →中央アジアのに遠征軍を送る

          cf.汗血馬:良馬を求めてを派遣

   朝鮮半島に進出

    前108年:を滅ぼし、以下の4郡を置く

     の4郡を設置

    ※衛氏朝鮮の建国者はと知られる

   北部に進出

    前111年:を滅ぼし、(現在のハノイ)などの南海9郡を置く

    は最南端に位置していた



  財政~積極的な外征が財政を圧迫

   の販売を政府が独占して利益をあげる

   :特産物を貢納させ、それを不足している地方に転売する物価調整法

   :物価が低いときは政府が買い占め、物価が高くなると売り出す物価抑制策

    他にも増税や売位・売官による収入増 →民衆の負担増加

   ※は新たな財政再建策(均輸法・平準法)を推進

   通貨制度:の鋳造

   官吏登用法:

    優秀な人材を地方で選び、地方長官が中央に推薦

     →推薦を受けたが多く官界に進出

   の献言によりが行われる

    →を置き、それぞれの専門の経学を太学で教えるようにした

  ※:人物・神話・車馬の行列などの画像を墓室に貼り付ける

 漢の衰退

  武帝の死後、政治の腐敗や官吏の不正によって政情不安となり、地方では豪族が台頭

   :皇帝の身近に仕える去勢された男子

   :皇帝の母の出身氏族

    →権力争いがおこる

   ※の土地と奴隷の所有に上限を設けようとする

    によって発布されるも、豪族の反対に遭って実施までに至らない

 の建国

  紀元後8年:外戚のが漢の皇帝を廃位して王朝を建てる

  儒教の理想である代の制度の復活をめざす

   ⇔改革が実情に合わず、各地に農民・豪族の反乱が起こる

  18~27年:

   農民反乱によって新が滅亡する

 の成立

  25年:漢の一族が漢を復興させる

   として即位

    都はにおかれる

  166年、169年にはがおこる

   宦官による党人(儒教を信奉する官僚)弾圧

    →農民反乱が相次ぎ、各地に有力な豪族が自立

  184年:

   華北に起こった宗教結社の指導者が起こした

   ※他の宗教結社~)など

  各地で群雄割拠の状態となり、後漢はによって220年に滅亡

  


漢代の社会と文化

統一国家の出現は、社会や文化にどのような影響を与えたのだろうか?

 

  大土地所有者で奴隷・小作人を使役して成長

 の保護

  前漢の武帝によりの意見が採用され、となる

   礼と徳の思想による社会秩序の安定を図る

  (『』・『』・『』・『』・『』)を定める

   宣帝の時代にを設置(※異説あり)

  前漢末:劉向が古文(戦国時代の文献)の整理・分類を行う

  後漢で(儒教の経典の字句解釈)がさかんになる

   代表的な儒者:

 

  宦官のが改良したといわれる

   →に代わり使用される 

    cf.751年ので西方に伝来

    ※布の一種のも用いられていた

  文字の改良:がつくられる

   後漢末には隷書の他、の三書体も用いられるようになった

  字書の編纂:後漢の許慎によって『』がつくられる

 歴史書・詩集の編纂

  (皇帝の事績)、(重要人物の伝記)、表(年表)、志(諸制度)

   前漢のの『

    武帝に仕え、宮刑に処せられる

    中国古代史の基本的文献とされる

   後漢のの『

    以後の正史の手本となる

  :記事を年月日順に記した歴史書

  『』:や宋玉らの作品を収録した韻文集

  『』:塩鉄専売制に関する儒者・官僚の討論集

 宗教結社の成立

  ):河北、河南、山東を中心に広まる

  ):陝西、四川を中心に広まる

 ※~天球儀や地震感知器の発明で知られる

 の中国伝来:後漢のの時代



 秦漢帝国

  皇帝を頂点とした巨大なであり、多くの民族を支配するでもあった

   官僚制と儒学によって支えられた皇帝が統治する国家体制

    →その後清朝まで約2000年続く

  「秦」は英語のChinaの語源となり、「漢」は中国全般を指す語句となる

 中国と世界とのつながり

  前漢の

   漢の武帝によってに派遣され、大月氏まで到達

   匈奴を挟撃するという目的は果たされなかったが、西域の事情が知られるようになった

   による交易がさかんになる端緒にもなった

  後漢の

   西域経営にあたり、部下の(ローマ帝国)に派遣したとされる

  実際には甘英はローマに行き着くことはできず、シリアで引き返した

  の治世にに任じられた際、漢に対して以東の50余国を服属させた

   166年には)の使節がに訪れ

 アジアの国際秩序の形成

  前漢の武帝の朝鮮進出の後、後漢末に南半分がとなって東アジア支配の拠点となる

  日本:57年にの奴国王が朝貢し、光武帝からを授けられる

   →「」印の発見

   弥生時代中期に九州北部に部族国家が生まれ、国家形成の段階に入る

  

   前漢の武帝がを滅ぼし、南海郡・日南郡などを置いて直接支配

    後漢代:ベトナムでが起こる

  東アジアの国際秩序

   中国の皇帝が周辺諸国の首長に官位や王号を与える

   周辺諸国の首長が中国王朝の権威を認めて

   中国皇帝が彼らに官爵や印綬などを与えて、従属的な君臣関係を結ぶことで成立

  ※インドからのの伝来



あ:    い:    う:

A:     B:    C:

①:   ②:   ③:   ④:



A:   B:   C:   D:   ①:



監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-05
参考資料・一次情報
  • 山川『詳説世界史研究』
  • 山川『世界史図録』
  • 各分野の教科書・資料集・一次資料