秦・漢帝国
新たに現れた「皇帝」は、それまでの「王」とどのように異なるのだろうか?

「皇帝」の出現
の強大化
前4世紀:は都をに移し、法家のを登用
法家の思想による富国強兵をめざした変法の実施
→中央集権化
e.g.の実施
他の六国を次々と征服
背景:遊牧民との接触
→早くからやを使用
秦の始皇帝
前221年:秦王のがを倒して中国を統一(都:)
はじめてを称する
死後にはと呼ばれる
統一政策
のの意見をもとに展開される
渭水南岸に新たな宮殿としてを建設
全国を36の郡とその下の県に分けて、中央から官吏を派遣する中央集権体制
→各地の豪族を服属させる中央集権体制の強制により、地方豪族の反発がおこる
・・・車軌の統一
貨幣: 文字:(簡略体が隷書)
(前213~前212年)
思想統制策
:・・の関連書以外の書物が焼き払われた
:数百人のなどが生き埋めにされた
の修繕
戦国時代の各国が造営したものを修築
北方のに対する対抗策
南方遠征
現在の広西省、広東省からベトナム北部にかけてを設置
ほかにも、など3郡を設置
将軍を派遣し、からを排除
→外征・土木事業・宮殿建造などの負担に対して農民が反発し、各地で反乱が発生
秦の滅亡
前210年:始皇帝の死
※巨大な陵墓にを殉葬
(前209~前208年)
中国最初の農民反乱
「」
王や諸侯などになるのに生まれは関係ない
戦国時代以来の実力主義の世情を表している
→従来の身分制の否定
前206年:秦の滅亡
楚の名門出身のと農民出身のが覇権を争う
前202年:垓下の戦い
cf.四面楚歌
前202年:がを建国し、初代皇帝として即位
嶺南地域では漢人のがを建国
漢の支配体制は、どのように変化していったのだろうか?

漢代の政治
の統一政策
前202年:高祖が即位し、都の(現在の)を建設
:皇帝直轄地にはを実施し、地方ではを残す
前154年:
皇帝権力強化に対する諸侯の反乱を鎮圧
第6代によって鎮圧される
→実質的にによる中央集権体制を樹立
のもとで強大化したに敗れる
多額の貢ぎ物を贈るという屈辱的な講和を結ぶ
の統治
前141~前87年に在位
前2世紀後半~前1世紀初頭に全盛期を迎える
諸侯の子弟すべてに領地を分け与えることを認める
諸侯たちの勢力を弱体化させるために出された
外征
に対する強硬策
将軍・による遠征
をに派遣
と同盟を結んで挟撃
→漢の勢力がタリム盆地のオアシスにまで及ぶ
河西回廊に河西4郡(西端が)を設置
、、、
→中央アジアのに遠征軍を送る
cf.汗血馬:良馬を求めてを派遣
朝鮮半島に進出
前108年:を滅ぼし、以下の4郡を置く
・・・の4郡を設置
※衛氏朝鮮の建国者はと知られる
北部に進出
前111年:を滅ぼし、・・(現在のハノイ)などの南海9郡を置く
は最南端に位置していた
財政~積極的な外征が財政を圧迫
:の販売を政府が独占して利益をあげる
:特産物を貢納させ、それを不足している地方に転売する物価調整法
:物価が低いときは政府が買い占め、物価が高くなると売り出す物価抑制策
他にも増税や売位・売官による収入増 →民衆の負担増加
※は新たな財政再建策(均輸法・平準法)を推進
通貨制度:の鋳造
官吏登用法:
優秀な人材を地方で選び、地方長官が中央に推薦
→推薦を受けたが多く官界に進出
の献言によりが行われる
→を置き、それぞれの専門の経学を太学で教えるようにした
※:人物・神話・車馬の行列などの画像を墓室に貼り付ける
漢の衰退
武帝の死後、政治の腐敗や官吏の不正によって政情不安となり、地方では豪族が台頭
:皇帝の身近に仕える去勢された男子
:皇帝の母の出身氏族
→権力争いがおこる
※:の土地と奴隷の所有に上限を設けようとする
によって発布されるも、豪族の反対に遭って実施までに至らない
の建国
紀元後8年:外戚のが漢の皇帝を廃位して王朝を建てる
儒教の理想である代の制度の復活をめざす
⇔改革が実情に合わず、各地に農民・豪族の反乱が起こる
18~27年:
農民反乱によって新が滅亡する
の成立
25年:漢の一族が漢を復興させる
として即位
都はにおかれる
166年、169年にはがおこる
宦官による党人(儒教を信奉する官僚)弾圧
→農民反乱が相次ぎ、各地に有力な豪族が自立
184年:
華北に起こった宗教結社の指導者が起こした
※他の宗教結社~()など
各地で群雄割拠の状態となり、後漢はによって220年に滅亡
漢代の社会と文化
統一国家の出現は、社会や文化にどのような影響を与えたのだろうか?
大土地所有者で奴隷・小作人を使役して成長
の保護
前漢の武帝によりの意見が採用され、となる
礼と徳の思想による社会秩序の安定を図る
(『』・『』・『』・『』・『』)を定める
宣帝の時代にを設置(※異説あり)
前漢末:劉向が古文(戦国時代の文献)の整理・分類を行う
後漢で(儒教の経典の字句解釈)がさかんになる
代表的な儒者:、
宦官のが改良したといわれる
→・に代わり使用される
cf.751年ので西方に伝来
※布の一種のも用いられていた
文字の改良:がつくられる
後漢末には隷書の他、・・の三書体も用いられるようになった
字書の編纂:後漢の許慎によって『』がつくられる
歴史書・詩集の編纂
:(皇帝の事績)、(重要人物の伝記)、表(年表)、志(諸制度)
前漢のの『』
武帝に仕え、宮刑に処せられる
中国古代史の基本的文献とされる
後漢のの『』
以後の正史の手本となる
:記事を年月日順に記した歴史書
『』:や宋玉らの作品を収録した韻文集
『』:塩鉄専売制に関する儒者・官僚の討論集
宗教結社の成立
():河北、河南、山東を中心に広まる
():陝西、四川を中心に広まる
※~天球儀や地震感知器の発明で知られる
の中国伝来:後漢のの時代
秦漢帝国
皇帝を頂点とした巨大なであり、多くの民族を支配するでもあった
官僚制と儒学によって支えられた皇帝が統治する国家体制
→その後清朝まで約2000年続く
「秦」は英語のChinaの語源となり、「漢」は中国全般を指す語句となる
中国と世界とのつながり
前漢の
漢の武帝によってに派遣され、大月氏まで到達
匈奴を挟撃するという目的は果たされなかったが、西域の事情が知られるようになった
による交易がさかんになる端緒にもなった
後漢の:
西域経営にあたり、部下のを(ローマ帝国)に派遣したとされる
実際には甘英はローマに行き着くことはできず、シリアで引き返した
の治世にに任じられた際、漢に対して以東の50余国を服属させた
166年には()の使節がに訪れ
アジアの国際秩序の形成
前漢の武帝の朝鮮進出の後、後漢末に南半分がとなって東アジア支配の拠点となる
日本:57年にの奴国王が朝貢し、光武帝からを授けられる
→「」印の発見
弥生時代中期に九州北部に部族国家が生まれ、国家形成の段階に入る
前漢の武帝がを滅ぼし、南海郡・日南郡などを置いて直接支配
後漢代:ベトナムでが起こる
東アジアの国際秩序
中国の皇帝が周辺諸国の首長に官位や王号を与える
周辺諸国の首長が中国王朝の権威を認めて
中国皇帝が彼らに官爵や印綬などを与えて、従属的な君臣関係を結ぶことで成立
※インドからのの伝来
あ: い: う:
A: B: C:
①: ②: ③: ④:
A: B: C: D: ①:
- 山川『詳説世界史研究』
- 山川『世界史図録』
- 各分野の教科書・資料集・一次資料