ボスニア
ボスニアとは国際政治でどう位置づけられるか
ボスニアは、バルカン半島中部に位置するボスニア・ヘルツェゴビナを略した呼称で、1990年代の民族紛争の主要舞台となった国である。冷戦後最初の大規模な民族浄化を伴う内戦が起き、国際社会の介入を受けた代表例である。
国家の構成
ボスニア・ヘルツェゴビナはセルビア人、クロアチア人、ボシュニャク人(ムスリム)の三民族が混住する多民族国家である。旧ユーゴスラビア連邦を構成する共和国の一つで、1992年に独立を宣言した。
旧ユーゴ解体との関連
1991年からの旧ユーゴスラビア解体の過程で、スロベニア、クロアチア、マケドニア、ボスニアが独立を宣言した。セルビアとモンテネグロは新ユーゴスラビアを形成した。ボスニアの独立は内戦の直接の引き金となった。
ボスニア紛争はどのように起きたか
ボスニア紛争は1992年から1995年まで続いた内戦で、三民族それぞれの民兵組織が領土支配を争った。民族浄化と呼ばれる組織的暴力が特徴で、国際社会に深い衝撃を与えた。
紛争の構図
ボシュニャクとクロアチア人は独立を支持したが、セルビア人は連邦残留を望んだ。独立後の国境内でセルビア人勢力がセルビア人共和国(スルプスカ共和国)の樹立を宣言し、三つ巴の戦闘が展開された。
民族浄化とスレブレニツァ
セルビア人勢力によるムスリム住民の大量殺害・追放は民族浄化と呼ばれ、1995年7月のスレブレニツァでは約8000人のムスリム男性が殺害された。この事件は旧ユーゴ国際刑事裁判所によってジェノサイドと認定された。
国際社会はどのように介入したか
ボスニア紛争には国連、NATO、EUが介入した。しかし当初の国連PKOは機能せず、最終的にNATO空爆とアメリカ主導の外交が紛争を終結に導いた。
国連PKOの限界
国連保護軍(UNPROFOR)は紛争当事者間の人道支援と停戦監視を担ったが、武力行使権限を欠き、スレブレニツァ事件などを防げなかった。この経験は以後のPKOのあり方を見直す契機となった。
デイトン合意
1995年11月、アメリカのデイトンで和平交渉が行われ、デイトン合意が調印された。合意によりボスニア・ヘルツェゴビナは単一の国家を維持しつつ、ボシュニャク・クロアチア人連邦とスルプスカ共和国の二つの構成体に分割された。
ボスニアは冷戦後の国際秩序をどう照らしたか
ボスニア紛争は冷戦後の民族紛争、平和執行活動、国際刑事司法など、新たな国際政治の争点を浮き彫りにした。国際社会の介入のあり方を根本から問い直す事例となった。
国際刑事司法の発展
1993年に設立された旧ユーゴ国際刑事裁判所(ICTY)は、戦争犯罪・人道に対する罪・ジェノサイドを裁いた。これが2002年の国際刑事裁判所(ICC)設立の前身となり、国際刑事司法の発展につながった。
人道的介入の議論
ボスニア紛争は主権と人権の関係を問い直し、人道的介入の議論を国際政治の主要テーマに押し上げた。その後のコソボ紛争介入や保護する責任(R2P)原則の形成へと議論は継承された。