絶対主義
<h2>絶対主義の定義と本質</h2>
絶対主義とは、16〜18世紀のヨーロッパで発達した政治体制で、国王が立法・行政・司法のすべての権限を独占し、いかなる制度的制約も受けない絶対的な権力を行使した体制である。近代主権国家の形成過程と深く結びついており、のちの市民革命によって打倒された。
<h3>絶対主義の仕組みと構造</h3>
絶対主義国家の典型はルイ14世(在位1643〜1715年)のフランスである。「朕は国家なり」という言葉(真偽は不確かだが)に象徴されるように、王の意志がそのまま法となる体制だ。国王は常備軍と官僚制を整備して地方貴族を統制し、重商主義政策で国家収入を確保した。
絶対主義を支えたイデオロギーが「王権神授説」である。王の権力は神から直接与えられたものであり、人民も議会も王権を制限できないという考え方だ。フランスのビシュエ(ボシュエ)は「国王は神の代理人である」と説き、この体制を正当化した。ただし「絶対」とはいえ、現実には貴族・聖職者・各都市の特権(フランス語でprivilège)がモザイク状に存在しており、王権が完全に無制限だったわけではない。
<h3>絶対主義の成立背景</h3>
絶対主義が成立したのには歴史的な文脈がある。中世の封建社会では国王・諸侯・教会が権力を分有していた。16世紀の宗教改革で宗教的権威が分裂し、さらに宗教戦争の混乱(フランスのユグノー戦争など)が続く中で、「秩序を回復できる強力な国家権力」への需要が生まれた。
火器の普及による軍事革命も重要な要因だ。大砲や銃を装備した常備軍を維持するには莫大な費用がかかり、そのための徴税機構と官僚制が発達した。これが封建的な分権体制を崩し、中央集権的な絶対主義国家を生み出した。経済的には重商主義政策によって国家が貿易・産業を管理し、軍事費を賄う富を蓄積した。
<h3>市民革命による打倒と歴史的意義</h3>
絶対主義は17〜18世紀の市民革命によって順次打倒された。イギリスでは名誉革命(1688年)で議会主権が確立し、フランスでは革命(1789年)で絶対王政が崩壊した。市民革命の思想的基盤は、ロック・ルソーらの社会契約論であり、「権力は統治される者の同意に基づく」という考え方が絶対主義の論理を根底から覆した。
絶対主義の遺産は複雑である。一方では官僚制・常備軍・統一的な法制度など近代国家の制度的基盤を整えた。他方では恣意的な権力行使への反発が立憲主義・民主主義の発展を促した。絶対主義は「打倒されるべき旧体制」であると同時に、近代国家形成の踏み台でもあった。
<h2>絶対主義と他の概念との関係</h2>
絶対主義は主権国家・国民国家・ナショナリズムの諸概念と密接に連関している。
<h3>主権国家体制における絶対主義の位置づけ</h3>
主権国家体制(ウェストファリア体制)の成立期において、主権の担い手は国民ではなく君主個人だった。絶対主義国家が主権を体現する主体であり、国際法もこれらの国家(君主)を対象として発展した。
市民革命後、主権の担い手は君主から国民へと移行する。この転換によって「国家と国民が一体化した」国民国家が形成され、ナショナリズムが国民統合の原理となった。絶対主義は国民国家・ナショナリズムの「前史」として位置づけることができる。
<h2>発展コラム:啓蒙専制君主</h2>
18世紀には、絶対主義と啓蒙思想が結びついた「啓蒙専制君主」が登場した。プロイセンのフリードリヒ2世(大王)やオーストリアのヨーゼフ2世がその代表例だ。彼らは絶対的な権力を維持しながら、農奴制の廃止・法典の整備・宗教的寛容政策など合理主義的な改革を行った。「君主は国家第一の下僕である」というフリードリヒの言葉は、絶対主義と啓蒙思想の複雑な関係を示している。