第9章 国際政治の動向と課題

エジプト

エジプト

エジプトはアラブの春においてどのような役割を果たしたのか?

エジプトは北アフリカに位置するアラブ諸国最大の人口(約一億人)を持つ国であり、アラブ民族主義と中東政治の中心的役割を担ってきた。エジプトはまたイスラエルとの和平(一九七九年のイスラエル・エジプト平和条約)を最初に実現したアラブ国家でもある。二〇一一年のアラブの春では、ホスニ・ムバラク大統領(一九八一〜二〇一一年在任)の独裁体制に反対する大規模な民主化デモがカイロのタハリール広場で始まり、一八日間の抗議活動でムバラクが辞任した。しかし二〇一三年に軍事クーデターが起き、民主選挙で選ばれたイスラーム主義のムルシ大統領が排除され、シーシー将軍が実権を握った。民主化の期待は大きく裏切られた形となった。

ナセル時代とアラブ民族主義はどのようなものだったか?

エジプトのガマール・アブドゥル=ナセル大統領(一九五六〜一九七〇年在任)は、アラブ民族主義(汎アラブ主義)の象徴的指導者だった。一九五六年にスエズ運河を国有化して英仏イスラエルの侵攻(スエズ戦争)を退け、アラブ世界の英雄となった。一九五八年にはエジプトとシリアがアラブ連合共和国として合邦したが、一九六一年にシリアが離脱した。ナセルは「アラブ社会主義」を掲げ、土地改革・産業国有化・無償教育の拡充などを推進した。一九六七年の第三次中東戦争(六日間戦争)でイスラエルに大敗し、シナイ半島を占領されたことでナセルの威信は大きく失墜した。この敗北はエジプトにとっては「六月の大惨事(ナクサ)」と呼ばれる。

サダト政権とイスラエルとの和平はどのように実現したのか?

ナセルの後を継いだアンワル・サダト大統領は現実主義的な政策転換を行った。一九七三年の第四次中東戦争(ヨム・キプール戦争)でエジプトはシナイ半島奪還のために奇襲攻撃を仕掛け、当初は戦果を上げたが最終的には劣勢に転じた。しかしこの戦争により、サダトは「イスラエルは軍事的に無敵ではない」と証明し、交渉による解決への道を開いた。一九七七年一一月にエルサレムを電撃訪問してイスラエル国会で演説するという歴史的行動をとり、一九七九年のイスラエル・エジプト平和条約締結に至った。しかし和平推進への批判からサダトは一九八一年にイスラーム過激派に暗殺された。

ムバラク政権の崩壊とその後のエジプトはどうなったのか?

ムバラク大統領は一九八一年から三〇年間にわたって権威主義的な支配を続けた。非常事態法の常時適用・反対派への弾圧・腐敗・格差拡大・高失業率が国民の怒りを蓄積させた。二〇一一年一月二五日から始まったタハリール広場への大規模な抗議運動(SNSが組織化に大きく貢献した)により、ムバラクは一八日後の二月一一日に辞任した。その後行われた選挙でイスラーム主義のムスリム同胞団を背景とするムルシが大統領に選出されたが、二〇一三年七月に国軍クーデターでムルシが排除された。シーシー将軍は二〇一四年に大統領に就任し、現在も権威主義的な統治が続いている。エジプトの経験は、「アラブの春」が民主主義の定着ではなく、権威主義の別の形への移行に終わった典型事例として分析されている。

エジプトはアフリカ大陸最大の人口を持つ国であり、アラブ世界の文化・政治・宗教の中心として「アラブ世界の首都」と称されてきた。エジプトはスエズ運河という世界の重要な海上交通路を管理しており、この戦略的重要性がアメリカをはじめとする大国との密接な関係につながっている。二〇二三年の人口は約一億一〇〇〇万人を超えており、急速な人口増加・高失業率・経済的格差は依然として深刻な問題だ。イスラエルとガザの境界に接するエジプトは、ガザ紛争においても重要な役割を担っており、停戦交渉の仲介者としてカタールとともに機能している。エジプトは難民受け入れ国でもあり、スーダン・シリア・エチオピア・エリトリアなどからの難民が流入している。アラブの春の教訓として、政治的自由化なしの経済改革だけでは民衆の怒りを抑えられないという問題が明確になったが、その後のエジプトは経済改革と政治的抑圧の組み合わせという道を選んでいる。

スエズ危機(一九五六年)はエジプトの国際政治上の重要性を示した事件だ。ナセルがスエズ運河の国有化を宣言すると、英仏イスラエルが軍事攻撃を行ったが、アメリカとソ連の双方から撤退を求められ、最終的に英仏イスラエルが撤退した。この事件はイギリスとフランスが大国としての地位を失い、超大国としての米ソの時代が確立されたことを象徴している。エジプト・コプト教(キリスト教の一派)の信者は人口の約一〇パーセントを占める。イスラーム系多数派とキリスト教系少数派の共存も、エジプトが直面するマイノリティ問題の一側面だ。

エジプトは歴史的にアフリカ・中東・地中海世界の交差点であり、ピラミッドに象徴される古代文明の遺産を持つ。イスラームとアラブ民族主義の中心地として、また現代では権威主義的な「開発独裁」の典型例として、多方面から研究されてきた。二〇一一年のタハリール広場での革命と、その後の軍事クーデターによる民主化の後退は、「アラブの春」が生み出した希望と失望の縮図だ。独裁政権打倒が必ずしも民主主義の定着につながらないという教訓は、国際社会が民主化支援をどのように行うべきかを問い続けている。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-27