第9章 国際政治の動向と課題

緊張緩和(デタント)

緊張緩和(デタント)

緊張緩和(デタント)とは何か

緊張緩和(デタント)とは、1960年代末から1970年代にかけて米ソ間で進められた関係改善と対立抑制の外交動向を指す。軍拡競争は続きつつも、核戦争回避のために対話と条約による相互管理を重視する段階に入ったことを表す概念である。

用語の由来と意味

デタントはフランス語で「緊張の緩み」を意味する語である。冷戦の全面対決を前提とせず、米ソが共通利益の領域で協力を模索する外交姿勢を包括的に示す用語として定着した。

二項対立の修正

デタントは東西陣営の対立を消し去るものではなく、対立を管理するルール作りを進めるものであった。軍事同盟の維持と軍備管理条約の並行が、その基本的な性格を示している。

デタントはどのような仕組みで進められたか

デタントは首脳会談、軍備管理条約、地域合意、経済・文化交流という複数の経路を通じて進められた。米ソ二国間交渉と欧州多国間枠組みが並走し、冷戦構造の枠内で対立緩和が制度化された。

軍備管理条約の展開

1972年のSALTⅠ協定でICBMとSLBMの数量が制約され、ABM制限条約が結ばれた。1979年のSALTⅡでさらに詳細な数量制限が合意された。これらは核軍拡競争を完全停止させなかったが、枠組みを与えた点で画期的であった。

欧州でのデタント

1975年のヘルシンキ宣言は国境の不可侵、人権尊重、経済・文化交流を柱とする欧州安全保障協力会議の基本文書となった。ブラント西独首相の東方政策もデタントの重要な構成要素であった。

デタントはなぜ進み、なぜ後退したか

デタントは米ソが戦略的優位を単独では獲得できない現実を共有したことから進んだ。しかし1970年代末以降、第三世界での代理対立が激化し、ソ連のアフガニスタン侵攻を機に関係は急速に悪化した。

進展の背景

キューバ危機の教訓から核戦争回避の必要性が双方で認識され、米ソともに国内の経済的制約から軍拡一本槍を続ける余裕を失っていた。中ソ対立による三極化もアメリカ外交の選択肢を広げた。

後退の契機

1979年のソ連アフガニスタン侵攻を受けてアメリカはSALTⅡ批准を見送り、1980年モスクワ五輪をボイコットした。レーガン政権の戦略防衛構想などで対立は再び激化し、新冷戦と呼ばれる局面へ移った。

デタントは何を遺したか

デタントは冷戦の終結を直接もたらしたわけではないが、核軍縮条約、人権規範、首脳対話、経済交流など冷戦後へつながる枠組みを残した。対立管理の経験はゴルバチョフ期の新思考外交にも継承された。

核軍縮規範の定着

SALTの交渉経験はSTART、INF全廃条約、包括的核実験禁止条約交渉へと連続した。デタント期の軍備管理は、冷戦後の軍縮体系を準備する役割を果たした。

人権と安全保障の連関

ヘルシンキ宣言は人権を安全保障の一部として扱う発想を欧州に定着させ、東欧の民主化運動を下支えした。デタントの人権規範は冷戦終結後の欧州安保協力機構(OSCE)の基礎となった。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-23