カンボジア
カンボジアとは何か
カンボジアとは、東南アジアのインドシナ半島に位置する立憲君主制国家で、正式名称はカンボジア王国である。面積は約18万平方キロメートル、人口は約1700万人で、首都はプノンペンである。
国家の基本的性格
カンボジアは9世紀から15世紀にかけてアンコール王朝が栄え、アンコール・ワットなどの遺跡群で知られる。19世紀後半からフランスの保護国となり、1953年に独立を達成した。
冷戦期から冷戦後にかけて、カンボジアは深刻な内戦と大量虐殺(ジェノサイド)を経験した。現代では東南アジア諸国連合(ASEAN)の一員として地域統合に参加しつつ、中国との関係を深めている。
カンボジアはどのような歴史を経てきたか
カンボジアの現代史は、独立、内戦、クメール・ルージュ政権、ベトナム軍の介入、国連管理下の平和プロセス、そして復興という大きな波を経て展開した。
現代史の展開
1953年にフランスから独立を達成したカンボジアは、当初シハヌーク国王(のち国家元首)のもとで中立政策をとった。しかし1970年のクーデターで親米派のロン・ノル政権が成立し、内戦が激化した。
1975年にクメール・ルージュ(ポル・ポト派)が首都プノンペンを占領し、極端な共産主義革命を実施した。都市住民を農村へ強制移住させ、知識人・宗教指導者などを弾圧した結果、約170万人が死亡したと推計される。
カンボジアと冷戦秩序はどう関わったか
カンボジアは冷戦後期からポスト冷戦期にかけて、国際政治の複雑な力学の交差点となった。米中ソ、ベトナム、ASEAN諸国の利害が絡み合う場となった。
ベトナム軍侵攻と国際的対応
1978年12月、クメール・ルージュ政権による国境問題と虐殺を受けて、ベトナムがカンボジアに侵攻し、1979年1月にクメール・ルージュ政権を打倒した。親ベトナムのヘン・サムリン政権が樹立されたが、ASEAN諸国と中国・アメリカはこれを認めず、クメール・ルージュを含む反ベトナム抵抗勢力を支援した。
1979年の中越戦争の背景には、このカンボジア問題がある。中国はベトナムの対外進出を抑え、ポル・ポト派を間接支援する目的で、国境でベトナム軍と交戦した。冷戦末期の東南アジアは、大国と地域勢力の絡み合う複雑な紛争の場となった。
カンボジアはどのように和平を達成したか
カンボジアの和平は、1991年のパリ和平協定と、国連暫定統治機構(UNTAC)による選挙実施を経て達成された。冷戦終結後の国際協調が機能した代表例である。
和平プロセス
1989年のベトナム軍撤退と冷戦終結が和平への道を開いた。1991年10月、国連安保理5常任理事国とカンボジア内の4勢力が参加するパリ和平協定が調印され、国連暫定統治機構(UNTAC)が設置された。日本からは明石康氏が特別代表を務めた。
1993年の制憲議会選挙を経て新憲法が制定され、シハヌークを国王とする立憲君主制が復活した。フン・セン氏を首相とするカンボジア王国が成立し、国際社会復帰を果たした。
現代のカンボジア
21世紀のカンボジアは、ASEAN加盟(1999年)を実現し、経済成長を遂げている。一方で政治的には権威主義化の傾向が指摘され、言論の自由や人権の状況が国際社会の懸念対象となっている。
対外関係では中国との経済・政治的結びつきが強まり、南シナ海問題などでASEAN内の中国寄り国家として振る舞う場面もある。冷戦後の東南アジアにおける大国バランスの変動を考える上で、カンボジアの動向は注目すべき指標となっている。