SALTⅡ
SALTⅡとは何か
SALTⅡは米ソが戦略核兵器の数量上限を設定した条約で、1979年6月18日にウィーンで調印された。Strategic Arms Limitation Treaty IIの略で、日本語では第二次戦略兵器制限条約と呼ばれる。
SALTⅠからの継続
1972年のSALTⅠ暫定協定は5年間の時限措置で、戦略核運搬手段の凍結のみを定めた。SALTⅡはその後継として、具体的な数量上限と対象兵器の拡大を目指して交渉された。
条約の基本構造
条約は運搬手段の総数制限、MIRV化ミサイル数制限、新型兵器開発制限、検証手続きから構成された。有効期間は1985年までと定められ、その後の後継条約交渉が想定されていた。
SALTⅡの内容はどのようなものか
SALTⅡは米ソそれぞれに戦略核運搬手段の総数を2400基以下とし、さらに1981年までに2250基以下に削減することを義務づけた。運搬手段とはICBM、SLBM、戦略爆撃機の三本柱を指す。
数量上限の詳細
総数2250基以下のうち、MIRV化ミサイルと巡航ミサイル搭載爆撃機の合計は1320基以下とされた。さらにMIRV化ICBMは820基以下、MIRV化ミサイル全体は1200基以下という下位区分が設定された。
新型兵器の制限
新型ICBMは各国1機種のみ開発可能とし、空中発射巡航ミサイルの射程と配備方法が規定された。移動式ICBMの扱いや試験制限も盛り込まれ、技術進歩による抜け穴を塞ぐ工夫がなされた。
なぜ批准されなかったのか
1979年12月のソ連アフガニスタン侵攻が批准の前提を崩した。さらにアメリカ国内ではソ連の軍事優位を懸念する声が強まり、上院の批准支持は得られなかった。
国内政治の変化
アメリカ議会ではソ連の戦略ミサイルの弾頭数がアメリカを上回るのではとの懸念が広がった。ネオコン系の政治家は条約がアメリカを不利にすると批判し、批准反対の世論が形成された。
レーガン政権の対応
1981年就任のレーガン政権はSALTⅡを批准せず、独自の軍拡路線をとった。しかし条約の数量制限は事実上遵守され、1986年まで米ソ両国は条件付きで枠組みを尊重した。
SALTⅡの歴史的意義はどこにあるか
SALTⅡは批准されなかったにもかかわらず、後のSTARTⅠやINF全廃条約に受け継がれる詳細な検証・計数手続きを確立した点で、核軍縮史における重要な足跡となっている。
検証制度の発展
SALTⅡでは国家技術的手段(衛星・偵察機)による検証が明文化され、データ交換と解釈共有のための常設協議委員会が設けられた。これは後の軍縮条約で必須の要素となった。
冷戦終結への道
SALTⅡが示した数量制限のモデルは、1987年のINF全廃条約と1991年のSTARTⅠに継承された。条約としては失敗したが、冷戦終結期の軍縮条約群を準備した基盤として位置づけられる。