COMECON(コメコン、経済相互援助会議)
COMECON(コメコン、経済相互援助会議)とは何か
COMECON(コメコン、経済相互援助会議)とは、1949年にソ連と東欧諸国が結成した社会主義諸国の経済協力機構である。西側のマーシャル・プランとOEECに対抗する形で組織され、社会主義陣営の経済的結束を担う中核機構として機能した。
機構の基本的性格
当初の加盟国はソ連・ポーランド・東ドイツ・チェコスロバキア・ハンガリー・ルーマニア・ブルガリアで、のちにモンゴル、キューバ、ベトナムも加盟した。本部はモスクワに置かれた。
COMECONは計画経済体制を基盤とする国際分業の調整を主な任務とし、資源の相互融通、貿易の調整、技術協力などを進めた。ソ連を経済的頂点とするブロック経済の運営機構であった。
COMECONはどのような仕組みで機能したか
COMECONは、加盟国間の計画経済を相互に調整する機能を果たした。市場メカニズムが働かない体制下で、国家間の取引を計画的に調整する必要が生じていた。
運用の仕組み
加盟国は自国の5か年計画を策定する際、COMECONを通じて他国との分業関係を調整した。貿易は各国間の二国間協定によって実施され、決済には振替ルーブルと呼ばれる計算単位が用いられた。
社会主義国際分業のもと、各国は得意分野に特化することが奨励された。ソ連は石油や鉄鉱石などの原料を供給し、東ドイツやチェコスロバキアは機械や電子製品を生産する構造が形成された。
COMECONはなぜ生まれたか
COMECONが生まれた背景には、マーシャル・プランによる西欧復興への対抗と、社会主義陣営独自の経済圏形成の必要があった。社会主義諸国は市場経済から切り離されており、独自の貿易・協力の仕組みを整える必要があった。
成立の経緯
1949年1月、モスクワでソ連・ブルガリア・ハンガリー・ポーランド・ルーマニア・チェコスロバキアの代表が会合を開き、COMECONの設立を決定した。設立直後にアルバニアと東ドイツも加盟した。
初期はソ連が他加盟国から資源を収奪する側面も強かったが、1956年のスターリン批判以降は対等な協力関係を目指す方向へと改革が進められた。1960年代以降は分業の計画化が本格化した。
COMECONと冷戦構造はどう関わるか
COMECONは、冷戦期の東西経済対立を制度化する中核機構として機能した。西側のOEEC(のちのOECD)やEECに対応する東側の経済組織として、社会主義ブロック経済の運営を担った。
ブロック経済の限界
COMECONは加盟国の経済的結束を一定程度実現したが、市場メカニズムの欠如、計画経済の硬直性、技術革新の遅れなど構造的問題を抱えていた。西側経済圏との生産性格差が1970年代以降に鮮明となった。
1980年代には改革の試みが行われたが成果は限定的で、ゴルバチョフのペレストロイカのもとで東欧諸国への補助金が削減されると、社会主義ブロック経済そのものが維持困難となった。
解体とその後
1991年6月、COMECONは正式に解散した。同年12月のソ連解体と並行して、社会主義陣営の経済的枠組みそのものが消滅した。旧加盟国の多くはEUへの加盟を選択し、市場経済への移行を進めた。
COMECONの解体は、冷戦終結の経済的側面を象徴する出来事であった。計画経済の国際的調整という壮大な実験は、歴史上のものとなったが、その遺制は旧加盟国の産業構造や貿易パターンに今も影響を残している。