歯舞群島
歯舞群島とはどのような島々か
歯舞群島は、北海道の根室半島の先端から続く一群の島々で、日本が北方領土と呼ぶ四島のうちの一部である。貝殻島、水晶島、秋勇留島、勇留島、志発島、多楽島、萌茂尻島などで構成される。面積は合計で約100平方キロにすぎない小さな島々だが、領土問題と漁業の場として大きな意味を持つ。
歯舞群島の地理と特徴は何か
歯舞群島は、北海道根室半島から北東へ約3キロから50キロほどの距離に位置する。最も近い貝殻島は、根室半島の納沙布岬からわずか約3.7キロしか離れていない。小さな島々が点在し、周囲には豊富な漁場が広がる。大きな島は志発島や多楽島で、面積はそれぞれ約60平方キロ、約10平方キロである。
気候は冷帯で、冬には流氷が接近し、夏には濃霧に包まれる日が多い。島々の自然環境は原生的で、海獣や海鳥の繁殖地として貴重な生態系を保っている。コンブ、ウニ、タラ、カニなどの豊かな水産資源に恵まれ、戦前は日本の漁業拠点として多くの住民が居住していた。
戦前までの歴史はどうだったか
歯舞群島は、江戸時代から松前藩と後には幕府の支配領域に含まれ、日本人の漁民が継続的に活動してきた。1855年の日魯通好条約、1875年の樺太千島交換条約でも、歯舞群島が日本の領土であることは国際的に確認されてきた。
戦前には約5000人の日本人住民が歯舞群島に居住し、漁業を中心とした生活を営んでいた。昆布漁、ニシン漁、鮭鱒漁が主要産業で、島内には学校や郵便局、漁業組合などの施設が整えられていた。島々は北海道本土と強い経済的、社会的な結び付きを持ち、日常的な人の行き来があった。
戦後の歯舞群島はどうなったのか
1945年のソ連による占領以降、歯舞群島は日本の実効支配を離れた。日本人住民は強制的に引き揚げさせられ、戦後の冷戦と領土問題の象徴的な場所となった。現在はロシアが実効支配を続けている状態である。
占領と住民の引き揚げはどう起きたか
1945年8月、ソ連は日ソ中立条約を破って対日参戦し、千島列島とともに歯舞群島と色丹島にも進軍した。日本の降伏後の9月初旬、歯舞群島は占領された。以後、日本人住民は強制的に引き揚げさせられ、多くの人が財産や生業を失った。
引き揚げ住民は北海道本土を中心に定住したが、故郷の島々を失った喪失感は大きかった。以後、元島民とその家族は、北方領土返還運動の中核として活動を続けてきた。毎年、根室市などで北方領土返還を求める集会や署名活動が行われ、歯舞群島は日本の領土問題の象徴的な存在となっている。
日本政府の立場はどうなっているか
日本政府は、歯舞群島は日本固有の領土であり、ロシアに不法に占拠されているとの立場を堅持している。歯舞群島は千島列島に属さず、サンフランシスコ平和条約でも権利放棄の対象ではないとの解釈が基本である。
1956年の日ソ共同宣言第9条では、平和条約の締結後にソ連が歯舞群島と色丹島を日本に引き渡すと明記された。これはソ連も歯舞群島が領土交渉の対象であることを認めた文書であり、日本の主張を裏付ける重要な法的根拠となっている。しかし、平和条約が締結されていない現状では、引き渡しは実現していない。
歯舞群島をめぐる現状と展望はどうなっているか
歯舞群島は、北方領土問題の中で比較的柔軟な交渉対象と位置付けられてきた。1956年の日ソ共同宣言で引き渡しが合意されている二島の一つであり、他の二島と比べれば返還の可能性がより具体的に議論されてきた島々である。
現代の島々の状況はどうか
歯舞群島は、色丹島や択捉島、国後島と比べてインフラ整備が遅れており、現在は国境警備隊が駐在する以外、常駐住民はほとんどいないとされる。漁業と水産加工が主な経済活動だが、その規模は他の島よりも限定的である。
根室半島から歯舞群島の貝殻島までは、非常に近く、天気の良い日には肉眼でも確認できる。この近さは、領土問題の現実を日常的に感じさせる地理的条件でもある。根室市は、返還運動の中心地として、歯舞群島と北方領土問題に関する展示や学習の拠点となっている。
二島返還論と四島返還論はどう関係するか
歯舞群島と色丹島は、1956年の日ソ共同宣言で引き渡しが約束された二島である。そのため、二島先行返還論が議論されるときには、歯舞群島がその対象となる。2018年の日ソ共同宣言を基礎に交渉を加速するとの日ロ首脳合意も、この二島の扱いを念頭に置いていた。
一方で、日本の基本的な立場は、歯舞、色丹、国後、択捉の四島一括返還である。歯舞と色丹だけの返還で領土問題を決着させることには、国内世論に強い抵抗がある。歯舞群島は、二島返還と四島返還の間で、日本の領土交渉戦略の焦点の一つとなっている。ロシアとの関係が悪化している現在、具体的な進展は見られず、長期的な交渉課題として残されている。