国際経済体制の変化
大不況とブロック経済の形成
1930年代の世界経済は、大不況によって根底から揺らいだ。それまで国際経済の基盤であった金本位制が崩壊し、各国は自国経済を守るために排他的なブロック経済へと向かった。この流れが、最終的に第二次世界大戦の引き金の一つとなった点は、経済政策と国際政治の不可分な関係を示している。
金本位制の崩壊とブロック経済化
金本位制とは、通貨の価値を金との交換によって保証する制度である。この制度のもとでは、各国の通貨は金という共通の基準によって価値が担保されており、国際取引の信頼性を支えていた。しかし1930年代の大不況は、各資本主義列強にこの制度の維持を困難にさせた。金本位制を廃止した各国は、宗主国と植民地・自治領との間だけで自由貿易を行うブロック経済化を進めた。ブロック内では自国の輸出拡大のために為替切り下げ競争が行われ、他のブロックからの輸入は厳しく制限された。
ブロック経済がもたらした破滅的連鎖
ブロック経済の帰結は、世界貿易のさらなる縮小と不況の深刻化であった。各ブロック内では資源が不足し、販売市場にも制限があったため、列強間では植民地をめぐる争いが激化した。この資源と市場をめぐる覇権争いが、第二次世界大戦への突入を招いた。排他的な経済圏が戦争の温床になるという教訓は、戦後の国際経済体制設計の根本的な動機となった。
IMFGATT体制の成立
第二次世界大戦後、国際社会は自由貿易を基本とした新しい国際経済秩序の形成に取り組んだ。その中心となったのが、1944年のブレトン=ウッズ協定によって設立されたIMF(国際通貨基金)とGATTである。この体制は「IMF=GATT体制」と呼ばれ、戦後の国際経済秩序の根幹をなした。
ブレトン=ウッズ体制の骨格
1944年に締結されたブレトン=ウッズ協定は、戦後の国際通貨・金融体制の基盤を築いた。IMFは外国為替の安定化と自由化を図る機関として設立された。第8条では為替制限の撤廃を定め、第14条では発展途上国向けの移行規定を設けた。日本は1964年にIMF第14条国(為替制限が認められる国)から、第8条国(為替制限が禁止される国)へと移行し、国際経済への本格参加を果たした。また、戦後復興と開発のために長期資金を貸与する国際復興開発銀行(IBRD、別称:世界銀行)も設立され、補助機関として国際開発協会(IDA)が置かれた。1947年にはGATTが締結され、いわゆるIMF=GATT体制が成立した。
IMFの理念と固定為替相場制
IMFの理念の核心は、為替制限を撤廃して多国間の支払い制度を確立し、国際収支の不均衡を調整することにある。赤字国には一時的に短期資金を供給する仕組みも整えられた。国際経済の基軸通貨(キーカレンシー)はアメリカドルと定められ、金1オンス=35ドルという固定レートのもと、各通貨はドルとの交換比率の変動を1%以内に抑える固定為替相場制が採用された。日本円は1ドル=360円に設定されたことは、日本の高度経済成長期を知るうえで重要な前提である。
GATTの理念と三原則
GATTは関税の引き下げや輸入数量制限の撤廃による貿易の自由化を目指した。その基本理念は「自由・無差別・多角主義」の三原則にまとめられる。自由の原則とは、多角的貿易交渉(ラウンド)を通じて関税引き下げと貿易制限の撤廃を目指すものである。ただし緊急輸入制限を行うセーフガードなどの例外措置も多く認められていた。無差別の原則とは、最恵国待遇として有利な貿易条件をすべての加盟国に対等に与えることを意味する。多角の原則とは、貿易上の問題をラウンド交渉(多国間交渉)によって解決することである。また、輸入禁止や数量制限を関税に置き換える「例外なき関税化(包括的関税化)」も定められており、日本ではコメに適用された。
OECDの役割
経済協力開発機構(OECD)は加盟国の経済の安定成長と貿易拡大を図るとともに、発展途上国への援助とその調整を目指す機関である。「先進国クラブ」とも呼ばれるこの組織は、IMF=GATT体制を補完する形で機能した。
IMF体制の動揺とキングストン体制
IMF体制は、アメリカ経済の安定とドルへの信用を前提としていた。しかし1960年代以降、その前提が崩れ始め、固定為替相場制は維持不可能となっていった。ニクソン・ショックを経て、世界は変動為替相場制へと移行した。
ドル不信の構造的要因
アメリカの国際収支の赤字が恒常化した背景には、複数の要因が絡み合っている。西欧諸国や日本の経済復興によるアメリカの輸出の減少、アメリカ企業の多国籍企業化による資本輸出の増加、西側諸国の拡大を図る軍事援助の拡大、そしてベトナム戦争に端を発するインフレの発生による輸出の低迷がある。これらが重なり、1960年代にはドルの価値に対する信頼が揺らいだ。各国はドルの金への交換を要求し、アメリカから金が大量流出する「ゴールド=ラッシュ」が起きた。この危機に対応するため、1969年には金・ドルに代わる第3の通貨として特別引き出し権(SDR)が創設された。
ニクソンショックとスミソニアン協定
1971年8月、アメリカのニクソン大統領は金・ドル交換の停止を宣言した。これが「ニクソン・ショック」であり、ブレトン=ウッズ体制を根本から揺るがす出来事となった。日本や西ドイツの経済的台頭とベトナム戦争によるアメリカの対外軍事支出の増加が主な背景である。同年12月にはスミソニアン協定が締結され、金価格に対するドルの切り下げや円など各国通貨の対ドル切り上げが行われた。しかしドル価値の下落は止まらず、1973年に各国は変動為替相場制へと移行した。
キングストン体制の成立
1976年にはキングストン合意(協定)が締結され、変動為替相場制が正式に承認された。SDR(特別引き出し権)の役割も拡大された。SDRとは、国際収支が赤字で国際決済に使用する外貨不足に陥った場合に、黒字国から外貨を引き出す権利のことである。これによってキングストン体制が成立し、固定相場制から変動相場制への移行が事後的に追認された。
変動為替相場制移行後の国際政策協調
変動為替相場制への移行後、為替相場の変動を利用して利益を得ようとする投機的な取引が増加した。これを受けて1973年以降は管理フロート制が採用され、主要国間の話し合いによってある程度の為替誘導と外国為替市場への協調介入が行われるようになった。1985年9月のプラザ合意では、G5が日米貿易摩擦の解決のために協調介入を行い、円安是正(円高誘導)とドル高是正(ドル安誘導)が決定された。その後、過剰な円高を防ぐために1987年2月のルーブル合意でG7が円売り・ドル買いの協調介入を決定した。このようにG7(先進7ヵ国財務担当大臣および中央銀行総裁会議)は、為替レートの調整や協調介入、金利調整などを通じて世界経済の安定化を図る役割を担った。
サミットとG20の展開
1975年に始まったサミット(主要国首脳会議)は、当初西側6ヵ国で開かれ、1976年には7ヵ国となった。一時期はロシアも加入して8ヵ国となったものの、ウクライナ侵攻への制裁措置で除名された。2008年にはリーマン=ショックに伴う世界経済危機対策として、G20サミット(金融サミット)が開催され、世界各国の協調的な金融緩和と財政出動が決定された。2010年のG20トロントサミットでは、EU域内のギリシアで発覚した財政危機を他国で起こさないために、2013年までに財政赤字を半減することを先進各国に義務づけた。なお日本はこれを猶予された。2019年には大阪サミット、2023年にはインドのニューデリーで開かれた。BRICSが中心となって設立したBRICS銀行(新開発銀行)では、中国が主導権を握り、人民元の存在感が高まっている。2013年には中国の習近平国家主席が「一帯一路」構想を打ち出し、アジアや中東、ヨーロッパを陸路と海路で結ぶ新たな経済圏が構想された。
南北問題と開発援助
南北問題とは、南半球の発展途上国と北半球の先進国との経済格差の問題である。貧困国の経済はモノカルチャー経済構造に縛られており、先進国に対して安く原材料などの一次産品を輸出し、高い工業製品を輸入する垂直的分業の構造に置かれていた。この不平等な貿易構造を変えようとする国際的な取り組みが、1960年代以降に始まった。
UNCTADの設立とプレビッシュ報告
1961年の国連総会では「国連開発の10年」が宣言され、1964年にはUNCTAD(国連貿易開発会議)が設立された。UNCTADの初代事務局長ラウル・プレビッシュが提出したプレビッシュ報告は、発展途上国が農産物や鉱物資源に特化し、先進国が工業製品に特化するという国際分業の構造が、交易条件を発展途上国に不利な方向へ動かし続けると指摘した。つまり、一次産品の価格は工業製品の価格に対して相対的に下がり続けるという「交易条件の悪化」が構造的に起きるとされた。この分析から「援助より貿易を」というスローガンが生まれ、先進国が発展途上国からの輸入品に対して一方的に優遇する一般特恵関税の導入が提唱された。また経済援助目標として、先進国のGNPの1%を開発援助に充てることが設定された。
政府開発援助(ODA)の役割
政府開発援助(ODA)は、政府や政府機関が提供する資金や技術協力である。現在は「援助も貿易も」という考え方のもと、ODAをGNP(GNI)の0.7%とする目標が定められている。援助の実質度合いを示す指標として「グラント=エレメント」があり、低利子の融資も含まれる。発展途上国が工業化して工業製品どうしの水平的分業を確立すること、そして一次産品の価格を安定させて先進国との間の交易条件を改善し、フェアトレードを実現することが長期的な目標とされている。UNCTADの下部組織には、発展途上国に対する援助と調整を図る開発援助委員会(DAC)が置かれている。
資源ナショナリズムと南南問題
1970年代、発展途上国の一部は自国資源の主権を取り戻すための行動に出た。一方で、発展途上国の間にも格差が広がり、単純な「南北問題」では捉えきれない「南南問題」が浮上した。
石油危機とNIEOの要求
1973年、OPEC(石油輸出国機構)が原油公示価格を大幅に引き上げ、特定国への輸出を禁止した。これが第1次石油危機(第1次オイルショック)である。このことは資源ナショナリズムの台頭を象徴した。自国資源の恒久的主権を求める動きが高まり、1974年の国連資源特別総会ではNIEO(新国際経済秩序)樹立をめざす宣言が採択された。その内容は、天然資源に対する保有国の恒久的主権、多国籍企業に対する規制や監視、一次産品の国際価格の安定化という三つの要求から成り立っており、先進国との対立を深めた。
NIEsの台頭と累積債務問題
1970年代には、工業製品の輸出によって成長する発展途上国が注目されるようになった。1980年代末には「NIEs(新興工業経済地域)」という概念が広まり、東アジアNIEs(韓国、台湾、香港、シンガポール)が輸出志向工業化政策に転換して成功を収めた。これらの国・地域は外貨導入による輸出振興と自国通貨の価値を低めに誘導することで輸出拡大を実現した。一方、中南米では、メキシコ・ブラジル・アルゼンチンなどが急成長したが、欧米の巨大銀行から多額の資金を借り入れていた。高金利による利子負担の増大と一次産品価格の低迷による輸出の停滞が重なり、債務を返済できなくなった。1982年にはメキシコが莫大な債務を抱えてデフォルト(債務不履行)に陥り、累積債務危機が表面化した。IMFはコンディショナリティ(緊縮財政などの条件)を設定したうえで救済を行い、支払期限の延期であるリスケジューリングや債務の一部免除、緊急追加融資などが行われた。アフリカなどの後発発展途上国(LDC)もデフォルトの危機に陥り、1990年代より重債務貧困国における債務削減が国際社会の課題となった。
南南問題の構造
南南問題とは、発展途上国の間の経済格差の問題である。産油国と非産油途上国との格差、そしてNIEs(新興工業経済地域)と後発発展途上国(LDC)との格差という二つの軸でとらえることができる。「南北問題」が先進国と途上国の対立を指すのに対し、南南問題は途上国内部の格差であり、国際援助や交渉の枠組みを複雑化させている。
レーガノミクスと国際政策協調
1980年代のアメリカでは、レーガン政権の経済政策(レーガノミクス)が国際経済に大きな影響を与えた。高金利政策はインフレを収束させたものの、資金流入によるドル高が輸出を抑制し、輸入を増加させて貿易収支赤字が急増した。さらに減税と軍事費の拡大から財政赤字も拡大し、これら二つの赤字は「双子の赤字」と呼ばれた。この問題を解決するため、1985年にG5がプラザ合意を成立させ、ドル高是正のための協調介入が行われた。
GATTのラウンド交渉からWTO体制へ
GATTのもとでは多角的貿易交渉(ラウンド)が繰り返され、段階的に貿易自由化が進められた。1970年代までに7回のラウンドが行われ、最終的にWTO(世界貿易機関)の設立へとつながった。
主要なラウンドの展開
1964年から1967年にかけて行われたケネディラウンドでは、工業製品に対する関税率の大幅引き下げやアンチダンピング規制が実現した。1973年から1979年の東京ラウンドでは、非関税障壁の本格的低減交渉が行われた。1986年から1994年のウルグアイラウンドでは、農業分野や知的財産権、サービス貿易、コメなどの農産物市場開放問題が焦点となった。農産物を含めた輸入品の例外なき関税化と、常設の多角的な通商紛争処理システムとしてのWTO設置が決まり、選択的セーフガード(特定国への緊急輸入制限措置)も禁止された。一般特恵関税は国連貿易開発会議(UNCTAD)での決定に基づき、発展途上国からの輸入品に対して関税率を引き下げる優遇措置として機能している。
WTO体制の成立と課題
1995年にWTO(世界貿易機関)が設立され、2001年には中国の加盟が決まった。最恵国待遇によって中国製品への関税率が下がり、中国は「21世紀の世界の工場」と呼ばれるほどの急成長を遂げた。WTO加盟とともに「ドーハ支援アジェンダ」(ドーハラウンド)が開始され、農業・市場アクセス・輸出補助金などの分野で議論が続いた。しかし途上国への開発支援が不十分として南北間での対立が生じ、2008年以降は交渉が行き詰まった。加盟国が150ヵ国を超えて利害対立が激しくなり、アンチダンピング措置の乱用防止、関税上限の設定、環境と貿易の共生ルール化をめぐって紛糾した。こうした状況の中、特定の地域間で貿易協定の締結を進める動きが拡大し、環太平洋経済連携協定(TPP)の拡大交渉が行われるようになった。なお、農産物などをWTOの枠外に置き事実上の輸入制限を行う「残存輸入制限」も一時期行われた。WTO体制ではGATTになかった内国民待遇(輸入品と国内品を区別せず同等の扱いを与える)とTRIPs協定(知的所有権の貿易関連の側面に関する協定)が追加された点でも、GATTとの重要な違いがある。
まとめ
国際経済体制の変化は、大不況とブロック経済の失敗という教訓から始まった。戦後はIMF=GATT体制のもとで自由・無差別・多角主義を理念とする国際貿易秩序が構築されたが、アメリカ経済の相対的衰退とともにブレトン=ウッズ体制は崩壊し、変動為替相場制へと移行した。並行して南北問題や南南問題、資源ナショナリズム、累積債務危機が国際社会を複雑化させた。GATTのラウンド交渉を経てWTOが設立されたが、加盟国の多様化と利害対立の深刻化によって多角的交渉は行き詰まり、地域貿易協定(FTA・EPA・TPP)の広がりという新たな局面に入っている。現在進行中の国際貿易秩序をめぐる議論は、「効率(自由化によって全体の利益を最大化する)」と「平等(弱い立場の国や産業を守る)」という二つの価値観の対立を反映している。先進国は自由化と競争原理を重視し、途上国はフェアトレードや特恵措置による平等な分配を求める。この対立を超えた公正な国際貿易秩序とはどのようなものか、あなた自身はどう考えるだろうか。