国際経済体制の変化
国際経済体制の変化
第二次世界大戦前後の世界では、国際経済の仕組みが大きく変化した。1930年代の大不況は世界経済を分断し、それが列強間の対立を深めて第二次世界大戦の背景となった。一方、戦後には自由貿易を基本とする新しい国際経済秩序が構築されたが、その体制も1970年代以降に動揺することになる。ここでは大不況から戦後体制の形成、そしてその変化までを整理する。
大不況と第二次世界大戦
20世紀初頭の世界経済は金本位制を基礎としていた。金本位制とは、通貨の価値を金との交換によって保証する制度であり、各国の為替相場は金を基準として安定していた。しかし1929年の世界恐慌によって各国経済は深刻な不況に陥り、1930年代には資本主義諸国の多くが金本位制を廃止した。その結果、各国は自国経済を守るためにブロック経済を形成するようになった。ブロック経済とは、宗主国と植民地・自治領などの間でだけ自由貿易を行い、他の地域との貿易を制限する経済圏である。各国は自国の輸出拡大のために為替の切り下げ競争を行い、他のブロックからの輸入を制限した。このような政策によって世界貿易はさらに縮小し、不況は一層深刻化した。またブロック内部では資源や市場が不足することが多く、列強はそれを補うために植民地の獲得をめぐって対立を強めていった。こうした経済的対立はやがて第二次世界大戦へとつながっていった。
戦後の国際経済秩序(IMF・GATT体制)
第二次世界大戦後、各国は戦前のような経済対立や保護主義の拡大が再び戦争につながることを防ぐため、新しい国際経済秩序を構築した。戦前の世界では大恐慌を契機として各国が金本位制を放棄し、ブロック経済を形成して貿易を制限した結果、世界経済が分断されて国際対立が深まった。その反省から、戦後の国際社会は自由貿易と通貨の安定を基礎とする国際経済体制を整備することを目指した。この体制の中心となったのが国際通貨基金(IMF)と関税と貿易に関する一般協定(GATT)であり、これらによって成立した仕組みはIMF・GATT体制、あるいはブレトン=ウッズ体制と呼ばれる。
ブレトン=ウッズ体制の成立
1944年、アメリカのニューハンプシャー州ブレトン=ウッズで連合国44か国が参加する国際会議が開かれ、戦後の国際金融体制を定めるブレトン=ウッズ協定が結ばれた。この協定によって国際通貨基金(IMF)と国際復興開発銀行(IBRD)が設立されることになった。IBRDは世界銀行とも呼ばれ、戦争によって破壊された各国経済の復興やインフラ整備のために長期資金を貸し出す機関であり、戦後復興と経済開発を支援する役割を担った。これらの国際機関を中心として形成された国際経済体制がブレトン=ウッズ体制である。
IMFの役割と固定為替相場制
IMFは外国為替の安定と国際金融秩序の維持を目的とする国際機関である。戦後の国際経済では各国が自由に貿易や資本取引を行うためには、為替レートが安定していることが不可欠であった。そのためIMFは為替制限の撤廃によって多国間の支払い制度を確立し、各国が自由に国際取引を行える環境を整えることを目指した。また各国の国際収支に不均衡が生じた場合には、赤字国に対して短期資金を供給することで経済の安定を図る役割も担った。
この体制ではアメリカのドルが国際経済の基軸通貨(キーカレンシー)とされ、ドルと金の交換比率は金1オンス=35ドルと定められた。各国通貨はドルとの交換比率を基準として為替レートを設定し、その変動を1%以内に抑えることが求められた。この仕組みは固定為替相場制と呼ばれる。例えば日本では1ドル=360円という為替レートが設定され、長期間にわたって維持された。このようにドルを中心として各国通貨を固定することで、戦後の国際経済は安定した為替制度のもとで発展することになった。
GATTによる自由貿易の推進
通貨制度と並んで、戦後の国際経済秩序を支えたもう一つの柱がGATTである。1947年に関税と貿易に関する一般協定(GATT)が締結され、関税の引き下げや輸入数量制限の撤廃によって国際貿易の自由化を進める仕組みが整えられた。戦前には各国が高い関税や輸入制限を設けて自国産業を保護した結果、世界貿易が大きく縮小したため、戦後の国際社会はこうした保護主義の拡大を防ぐ必要があると考えた。そのためGATTは関税引き下げを中心とする自由貿易体制を目指したのである。
GATTでは輸入禁止や数量制限などの直接的な貿易制限をできるだけ廃止し、それらを関税へと置き換えることが求められた。これは例外なき関税化と呼ばれる考え方であり、貿易制限を透明な形にすることで各国の貿易政策を明確にし、自由貿易を促進することを目的としていた。ただし国内産業を保護する必要がある場合には一定の関税を認めるなど、現実的な調整も行われていた。例えば日本ではコメに対する関税が設定され、農業保護政策の一環として用いられている。
GATTの三原則
GATTは自由・無差別・多角という三つの原則を基本理念としていた。自由の原則とは、関税の引き下げや撤廃によって国際貿易を拡大し、各国の市場を開放することである。輸入数量制限などの非関税障壁を減らすこともこの原則に含まれていた。ただし国際収支が大きく悪化した場合や国内産業を守る必要がある場合には、例外的に数量制限などの措置が認められることもあった。
無差別の原則は、加盟国の間で差別的な貿易条件を設けないという考え方である。特に重要な制度が最恵国待遇であり、ある国に与えた最も有利な貿易条件をすべての加盟国に同様に適用することが求められた。また輸入品と国産品を同等に扱う内国民待遇もこの原則の重要な要素である。これによって特定の国だけが有利になる貿易制度を防ぐことができた。
多角の原則とは、貿易問題を二国間交渉ではなく多国間交渉によって解決するという考え方である。GATTでは関税引き下げなどの交渉をラウンドと呼ばれる多角的貿易交渉で行い、多くの国が同時に参加して貿易自由化を進めた。この仕組みによって国際貿易のルールが段階的に整備され、戦後の世界貿易は急速に拡大していった。
IMF体制の動揺
戦後の国際経済秩序はブレトン=ウッズ体制によって支えられていたが、この体制はアメリカ経済の安定とドルに対する国際的な信頼を前提として成立していた。しかし1960年代になると、アメリカの国際収支赤字が慢性的に拡大し、ドルの価値に対する信頼が揺らぎ始める。西欧諸国や日本の経済復興によってアメリカの輸出が相対的に減少したことに加え、多国籍企業の拡大による資本輸出の増加や、ベトナム戦争などによる軍事支出の増大がアメリカの対外収支を悪化させたためである。このような状況の中でブレトン=ウッズ体制は次第に維持が困難となり、1970年代には大きな転換を迎えることになった。
ドル危機とSDRの創設
1960年代に入ると、アメリカの国際収支赤字が続く中で世界にはドルが大量に流通するようになった。その結果、各国はドルの価値に対して不安を抱くようになり、ドルを金と交換する動きが強まった。ブレトン=ウッズ体制ではドルと金の交換が保証されていたため、各国がドルを金に交換しようとするとアメリカから金が流出することになる。この現象はゴールド=ラッシュとも呼ばれ、ドル体制への不信を象徴する出来事となった。こうした問題に対応するため、1969年には金やドルに代わる新しい国際準備資産として特別引き出し権(SDR)が創設された。SDRはIMFが加盟国に割り当てる国際準備資産であり、国際収支が赤字となって外貨が不足した場合に、他国から外貨を引き出す権利として利用されるものである。
ニクソン=ショック
ドルへの信頼が低下するなかで、1971年8月にアメリカのニクソン大統領はドルと金の交換停止を発表した。これをニクソン=ショックという。ドルと金の交換停止はブレトン=ウッズ体制の根幹を揺るがす決定であり、事実上固定為替相場制の崩壊を意味していた。この決定の背景には、日本や西ドイツなどの経済成長によってアメリカの経済的優位が相対的に低下していたことや、ベトナム戦争による軍事支出の拡大、インフレの進行などがあった。ニクソン=ショックの後、同年12月にはスミソニアン協定が締結され、ドルの切り下げや各国通貨の対ドル切り上げなど為替レートの調整が行われたが、ドルの下落は止まらず、固定為替相場制を維持することは困難になっていった。
変動為替相場制とキングストン体制
1973年には主要国が固定為替相場制を放棄し、為替レートを市場の需給によって決定する変動為替相場制へ移行した。変動為替相場制のもとでは、通貨の価値は外国為替市場での取引によって変動するようになり、各国の為替制度は大きく変化した。その後1976年にはキングストン合意が成立し、変動為替相場制が正式に承認されるとともに、SDRの役割が拡大された。この新しい国際通貨体制はキングストン体制と呼ばれる。キングストン体制の成立によってブレトン=ウッズ体制は完全に終焉を迎え、戦後の固定為替相場制に代わって、より柔軟な国際通貨制度が確立することになった。
管理フロート制と為替協調
変動為替相場制へ移行すると、為替レートの変動を利用して利益を得ようとする投機的取引が増加するようになった。そのため主要国は為替市場の安定を図るために、一定の範囲で為替を誘導する管理フロート制を採用するようになった。これは完全な市場任せではなく、必要に応じて政府や中央銀行が外国為替市場に介入し、為替レートの急激な変動を抑える仕組みである。1985年には日米貿易摩擦の解消を目的としてG5によるプラザ合意が成立し、各国が協調してドル安・円高を誘導する為替介入を行った。その後1987年には円高が進みすぎたことを受けて、G7によるルーブル合意が結ばれ、円売り・ドル買いの協調介入が実施された。このように変動為替相場制のもとでは、主要国が協力して為替の安定を図る国際政策協調が重要な役割を果たすようになった。
南北問題
第二次世界大戦後、国際経済は自由貿易を基礎とする体制のもとで発展したが、その一方で先進国と発展途上国との間の経済格差が大きな問題として認識されるようになった。多くの発展途上国は植民地支配の歴史を背景として経済構造が脆弱であり、国際貿易のなかでも不利な立場に置かれていた。このような先進国と発展途上国との経済格差の問題は南北問題と呼ばれ、現代の国際経済における重要な課題となっている。
南北問題の構造
南北問題とは、主に北半球に位置する先進国と南半球に多い発展途上国との間に存在する経済格差の問題である。多くの発展途上国では農産物や鉱物資源など特定の一次産品に依存するモノカルチャー経済構造が形成されていた。そのためこれらの国々は安価な原材料を輸出し、高価な工業製品を輸入するという垂直的分業の構造に組み込まれていた。このような国際分業のもとでは、一次産品の価格が長期的に低下しやすく、発展途上国の交易条件は次第に不利になっていくと指摘された。
国際的な開発支援の取り組み
こうした状況を改善するため、国際社会では発展途上国の経済発展を支援する取り組みが進められるようになった。1961年には国連総会で「国連開発の10年」が提唱され、発展途上国の経済成長を支援する国際協力が強化された。1964年には国連貿易開発会議(UNCTAD)が設立され、発展途上国の貿易や開発問題を議論する場が整えられた。また先進国の経済協力開発機構(OECD)では開発援助委員会(DAC)が設けられ、発展途上国への援助の調整が行われるようになった。
プレビッシュ報告と交易条件問題
南北問題の構造を理論的に説明したものとして知られるのがプレビッシュ報告である。この報告では、発展途上国は農産物や鉱物資源などの一次産品に特化し、先進国は工業製品に特化するという国際分業の構造が形成されていることが指摘された。その結果、一次産品の価格は長期的に低下しやすく、工業製品の価格との差が広がることで発展途上国の交易条件は不利になっていくとされた。この問題を改善するため、発展途上国は一次産品価格の安定化や貿易条件の改善を国際社会に求めるようになった。
援助と貿易による発展
発展途上国の経済発展を支援するためには、先進国からの援助だけでなく貿易の拡大も重要であると考えられるようになった。こうした考え方は「援助より貿易を」というスローガンで表現され、発展途上国の輸出拡大を支援する政策が検討された。その一つが一般特恵関税であり、先進国が発展途上国からの輸入品に対して関税を引き下げる優遇措置を行う制度である。また政府や政府機関が資金や技術協力を提供する政府開発援助(ODA)も重要な支援策となった。現在では先進国が国民総所得(GNI)の0.7%をODAとして拠出することが国際的な目標とされている。
発展途上国の経済発展と課題
発展途上国の中には工業化を進め、工業製品を輸出することで経済成長を実現した国や地域も現れた。こうした国々は輸出志向工業化政策を採用し、外資導入や輸出振興によって工業化を進めた。しかしすべての発展途上国が同様の成長を達成できたわけではなく、多くの国では依然として一次産品に依存する経済構造や貧困問題が残されている。そのため南北問題は現在でも国際社会が取り組むべき重要な課題となっている。
資源ナショナリズムと南南問題
1970年代になると、発展途上国のなかで自国の天然資源を自らの利益のために利用しようとする動きが強まり、国際経済の構造にも大きな変化が生じた。また発展途上国の内部でも経済成長の格差が拡大し、途上国同士の格差が新たな問題として注目されるようになった。このような現象は資源ナショナリズムや南南問題として理解され、国際経済の重要な課題となっている。
石油危機と資源ナショナリズム
1973年、石油輸出国機構(OPEC)は原油価格を大幅に引き上げ、さらに特定の国に対する石油輸出を制限した。この政策によって原油価格は急激に上昇し、世界経済に大きな影響を与えた。この出来事は第1次石油危機(第1次オイルショック)と呼ばれる。石油危機の背景には、資源を保有する国々が自国の天然資源に対する支配権を強めようとする動きがあった。このような考え方は資源ナショナリズムと呼ばれ、自国資源に対する恒久的主権を主張するものである。
新国際経済秩序(NIEO)の提唱
資源ナショナリズムの高まりの中で、発展途上国は国際経済の仕組みそのものの改革を求めるようになった。1974年には国連資源特別総会において新国際経済秩序(NIEO)の樹立を目指す宣言が採択された。この宣言では天然資源に対する保有国の恒久的主権の確立、多国籍企業に対する規制や監視、さらに一次産品価格の安定化などが提案された。しかしこれらの要求は先進国の利益と衝突する部分も多く、実現には多くの困難が伴った。
NIEsの成長
1970年代以降、発展途上国の中には工業化を進めて急速な経済成長を実現する地域が現れた。これらの国や地域は新興工業経済地域(NIEs)と呼ばれる。特に韓国、台湾、香港、シンガポールの東アジアNIEsは輸出志向工業化政策を採用し、外資導入や輸出振興政策を通じて急速な工業化を実現した。これらの国々は自国通貨の価値を低めに誘導することで輸出競争力を高め、国際市場での競争力を強化した。
累積債務問題
一方で、すべての発展途上国が順調に経済成長を遂げたわけではなかった。中南米諸国の中には海外から多額の資金を借り入れて経済開発を進めた国が多く存在したが、1980年代になると高金利政策や一次産品価格の低迷によって輸出が伸び悩み、借入金の返済が困難になる国が増加した。1982年にはメキシコが債務不履行(デフォルト)に陥り、累積債務危機が表面化した。これに対してIMFは緊縮財政などの条件を課すコンディショナリティを設定したうえで救済措置を行ったが、多くの途上国では深刻な経済停滞が続くことになった。
南南問題
発展途上国の間でも経済格差が拡大するようになり、これを南南問題と呼ぶ。例えば石油価格の上昇によって大きな利益を得た産油国と、石油を輸入に依存する非産油途上国との間には大きな格差が生まれた。また工業化に成功したNIEsと、依然として貧困状態にある後発発展途上国(LDC)との間でも経済格差が広がった。このように発展途上国の内部でも多様な経済状況が生まれたことが、南南問題の特徴である。
レーガノミクスと国際政策協調
1970年代以降、石油危機や為替の不安定化によって世界経済は大きく揺らぎ、各国は国際協調によって経済問題に対応する必要に迫られるようになった。このような状況の中で、主要国は首脳会議や財務会議を通じて国際政策協調を進めるようになった。また1980年代にはアメリカでレーガノミクスと呼ばれる経済政策が実施され、国際経済にも大きな影響を与えることになった。
サミットと国際政策協調
1975年、世界経済の危機に対応するため、主要国の首脳による会議であるサミットが開催された。当初はアメリカ、イギリス、西ドイツ、フランス、日本、イタリアの6か国で行われたが、翌年にはカナダが加わり主要7か国によるG7サミットとして定着した。サミットでは世界経済の安定や国際金融問題などが議論され、各国が協調して経済政策を進める枠組みが整えられていった。
レーガノミクスと双子の赤字
1980年代、アメリカのレーガン政権は減税や規制緩和、軍事費の拡大などを柱とする経済政策を実施した。この政策はレーガノミクスと呼ばれる。レーガノミクスのもとでは高金利政策によってインフレが抑制される一方、アメリカに世界各国から資金が流入し、ドル高が進行した。ドル高によって輸出が伸び悩み輸入が増加したため、アメリカの貿易収支赤字は急速に拡大した。また減税と軍事費拡大によって財政赤字も拡大した。このように貿易赤字と財政赤字が同時に拡大した状況は双子の赤字と呼ばれる。
プラザ合意
1985年、アメリカ、日本、西ドイツ、フランス、イギリスの5か国によるG5会議が開かれ、ドル高を是正するための協調行動が決定された。これがプラザ合意である。各国は外国為替市場に協調介入を行い、ドル安を誘導することでアメリカの貿易赤字の改善を図った。この結果、円高とドル安が急速に進行し、日本経済にも大きな影響を与えることになった。
WTO体制
戦後の国際貿易体制は長い間GATTによって支えられていたが、国際貿易の拡大や新しい経済分野の出現に伴い、より強力な国際機関の必要性が高まるようになった。その結果、1995年にはGATTを発展させた世界貿易機関(WTO)が設立され、新しい国際貿易体制が形成された。
GATTラウンドと貿易自由化
GATTのもとでは関税引き下げや貿易自由化を進めるため、ラウンドと呼ばれる多角的貿易交渉が行われた。1964年から1967年にかけて行われたケネディラウンドでは工業製品の関税が大幅に引き下げられ、アンチダンピング規制が導入された。1973年から1979年の東京ラウンドでは非関税障壁の削減が主要な議題となり、貿易自由化がさらに進められた。
※アンチダンピング:外国企業が「不当に安い価格」で商品を輸出してきたときに、自国産業を守るために追加の関税をかける措置
ウルグアイラウンドとWTOの設立
1986年から1994年にかけて行われたウルグアイラウンドでは、それまでの工業製品に加えて農業、サービス貿易、知的財産権など新しい分野が交渉の対象となった。この交渉の結果、農産物を含めた輸入品の例外なき関税化が決定され、また国際貿易の紛争処理を行う常設機関としてWTOを設立することが決まった。1995年にWTOが発足すると、国際貿易のルールはより強い拘束力を持つ制度へと発展することになった。
WTO体制の特徴
WTOはGATTに比べて対象分野が拡大しており、従来のモノの貿易だけでなくサービス貿易や知的財産権も扱うようになった。また通商紛争の処理制度が強化され、加盟国の間で貿易紛争が生じた場合にはパネルによる判断が行われ、その決定に基づいて対抗措置をとることができる仕組みが整えられた。このようにWTO体制はより制度化された国際貿易秩序として機能することになった。
まとめ
戦後の国際経済秩序は、ブレトンウッズ体制のもとで形成されたIMF・GATT体制を基盤として発展した。IMFは固定為替相場制を維持するための国際金融秩序を担い、GATTは関税の引き下げや貿易自由化を通じて国際貿易の拡大を支える役割を果たした。この体制によって戦後世界では国際経済の安定と貿易の拡大が進んだが、1970年代になるとアメリカのドル防衛政策や金とドルの交換停止によって固定為替相場制は崩れ、国際通貨体制は変動為替相場制へと移行することになった。
同じ時期には、石油危機を背景として資源を保有する国々が自国資源の支配権を主張する資源ナショナリズムが高まり、発展途上国は国際経済の構造改革を求めて新国際経済秩序(NIEO)を提唱した。また途上国の内部でも経済成長の格差が広がり、産油国や新興工業経済地域(NIEs)と後発発展途上国との間に生じた格差は南南問題として認識されるようになった。
1980年代にはアメリカでレーガノミクスが実施され、ドル高の進行や双子の赤字の拡大など国際経済に大きな影響を与えた。この状況に対応するため、主要国はサミットなどを通じて国際政策協調を進め、プラザ合意によって為替の調整を行うなど、世界経済の安定化を図る取り組みが進められた。
その後、国際貿易の拡大と経済のグローバル化に対応するため、GATTの多角的貿易交渉であるウルグアイラウンドを経て、1995年には世界貿易機関(WTO)が設立された。WTO体制ではモノの貿易に加えてサービス貿易や知的財産権も対象とされ、さらに通商紛争の処理制度が強化されるなど、国際貿易秩序はより制度化された形で運営されるようになった。このように戦後の国際経済は、国際通貨体制の変化や途上国問題、国際政策協調、そして貿易制度の発展を通じて現在のグローバル経済へと展開してきた。