第9章 国際政治の動向と課題

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軍備競争と軍備縮小

核軍拡競争と核抑止

核兵器の登場は、国際政治の論理そのものを塗り替えた。1945年8月、広島と長崎に原爆が投下されたとき、世界は「一発の爆弾が都市を消滅させる」という現実を初めて目の当たりにした。その後の冷戦期、アメリカとソ連は互いの核兵器を牽制し合いながら、際限のない軍拡競争へと突き進んでいった。

原爆投下とその影響

1945年7月16日、アメリカはマンハッタン計画による核実験を成功させ、翌月に広島(8月6日)と長崎(8月9日)に原子爆弾を投下した。瞬時に多数の命が奪われただけでなく、生き残った被爆者は放射線による障がいや病気に長く苦しみ、社会的な差別にもさらされた。被爆症認定をめぐる訴訟は今日もなお続いており、核兵器の「その後」が単なる歴史ではないことを示している。

核実験の成功はアメリカにとどまらず、ソ連(1949年)、イギリス(1952年)、フランス(1960年)、中国(1964年)が相次いで核兵器を保有した。これにより、核は一国の「切り札」から、複数の大国が抱える「共通の脅威」へと変貌した。

米ソの核軍拡競争

冷戦期の米ソ対立は、大陸間弾道ミサイル(ICBM)、潜水艦発射弾道ミサイル(SLBM)、戦略爆撃機という三本柱——いわゆる「核の三本柱」——を軸にした熾烈な軍拡競争を引き起こした。どちらが先に多くの核弾頭を持つか、どちらがより確実に相手を破壊できるかという競争は、軍事費を膨張させると同時に、両国の経済・社会にも深刻な歪みをもたらした。

こうした状況を理論的に整理したのが核抑止論である。核抑止論とは、対立する核兵器国が「相手を攻撃すれば自国も壊滅する」という恐怖から互いに先制攻撃を自制し合う状態を指す。この均衡状態は「恐怖の均衡」とも呼ばれる。さらに、同盟国に対しても核の傘を広げる拡大抑止政策が採用され、第二次世界大戦後の日本もアメリカの核の傘のもとに置かれた。

軍備管理と核軍縮への歩み

核の恐怖は、逆に核軍縮への動機にもなった。1962年のキューバ危機は、核戦争が「絵空事」ではなく「現実の選択肢」であることを米ソ双方に突きつけた出来事であった。この危機を契機に、平和共存が関係国の共通の利益であるという認識が広まり、核軍備を抑制しようとする動きが加速した。

軍備管理条約の展開

軍備管理とは、軍備の量的削減にとどまらず、軍備の配置・運用・開発を制限する幅広い措置を指す。1963年には部分的核実験停止条約(PTBT)が結ばれ、大気圏・水中・宇宙空間における核実験が禁止された。1968年には核拡散防止条約(NPT)が成立し、米・ソ・英・仏・中の5か国以外の核保有を防止するとともに、非核兵器国には国際原子力機関(IAEA)の査察を受ける義務が課された。

米ソ間では1969年から第1次戦略兵器制限交渉が始まり、1972年に戦略兵器制限条約(SALTⅠ)が締結された。1979年にはSALTⅡが調印されたものの、ソ連のアフガニスタン侵攻を機にアメリカは批准を拒否した。交渉は断続的に続き、1987年には初めて核兵器の削減(廃棄)を定めた中距離核戦力(INF)全廃条約が成立した。その後も1991年のSTARTⅠ、1993年のSTARTⅡ(未発効)、2002年のモスクワ条約(戦略核弾頭数の削減合意)、2010年の新START調印と、条約の積み重ねが続いた。

しかし、これらの条約には抜け穴の存在、条約未締結国による核実験、条約の未発効といった問題点が残る。条約が締結されても、それが誠実に履行されるとは限らない。核軍縮の歴史は「前進と後退の繰り返し」として理解することが重要である。

非核地帯の拡大

条約交渉と並行して、特定の地域を核兵器から解放しようとする非核地帯条約も各地で採択された。南極条約をはじめ、南太平洋のラロトンガ条約、東南アジアのバンコク条約、アフリカのペリンダバ条約、中央アジアのセメイ条約などがその例である。これらは国家間の条約ではなく、地域全体を核の脅威から切り離す試みであり、「核なき地域」の形成が国際社会の一つの潮流となっていることを示している。

NPT体制の課題

NPT体制は核不拡散の国際的な枠組みとして機能してきたが、その限界も明らかになっている。体制の内側と外側の双方から圧力がかかり、「核なき世界」への道のりはなお険しい。

体制の構造と限界

NPTは非核兵器国への核拡散を防止することを主な目的とし、非核兵器国に対して核兵器を使用しないという約束(消極的安全保障)を結び、核物質の軍事転用を防ぐためにIAEAの査察を義務づけている。1995年のNPT再検討・延長会議では同条約の無期限延長が決定され、翌1996年には爆発を伴う核実験を全面禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)が採択された。また、兵器用核分裂性物質(高濃縮ウランとプルトニウム)の生産を禁止するカットオフ条約の交渉も議題にあがっているが、2021年現在、交渉は開始されていない。

体制の最大の課題は、NPTに加わらない国々の存在である。イスラエル、インド、パキスタンは核兵器を保有しながら条約に署名していない。「五大国の核兵器を温存したまま他国の核保有を禁じようとするNPTの論理は説得力がない」という批判は根強く、体制の正当性そのものが問い直されている。

イランと北朝鮮の問題

NPT体制を揺るがす具体的な事例として、イランと北朝鮮の問題がある。イランは核兵器開発疑惑を持たれ、2006年以降に国連安保理決議に基づく経済制裁を受けた。2015年には米英仏独中ロとイランが核合意を締結し、ウラン濃縮活動などの自制と引き換えに経済制裁が解除された。しかし2018年にアメリカが制裁を再開し、イランも濃縮活動を再開するという後退が生じた。

北朝鮮は核施設の凍結・核計画の放棄をめぐる交渉を長年にわたって繰り返してきた。1994年の米朝枠組み合意(核施設凍結)、2005年の六者会合共同声明(核計画放棄の約束)など複数の合意が成立したものの、いずれも長続きしなかった。国連安保理は「完全で、検証可能で、不可逆な形での放棄」を求める決議を採択し、北朝鮮への経済制裁の根拠としている。日本も北朝鮮に対して独自の制裁措置を講じている。

さらに、2019年にはINF全廃条約が失効し、2022年のロシアによるウクライナ侵攻では核兵器使用が示唆された。核軍縮の歯車が確実に逆回転し始めていることは、数字にも表れている——2023年の「世界終末時計」は残り1分30秒前を示し、2025年には1分29秒前、2026年には1分25秒前と、過去最短水準を更新し続けている。

軍備なき平和をめざして

核兵器に限らず、大量破壊兵器や非人道的兵器の規制、そして市民による軍縮運動も、「軍備なき平和」への道を切り開いてきた。

大量破壊兵器の規制と非人道的兵器の禁止

1975年には生物兵器禁止条約、1997年には化学兵器禁止条約が発効し、核兵器以外の大量破壊兵器にも規制が及んだ。非戦闘員の一般市民が犠牲者になりやすい兵器に対しても規制が加えられ、1999年には対人地雷全面禁止条約(「対人地雷禁止キャンペーン」が推進力となった)、2010年にはクラスター爆弾禁止(オスロ)条約が成立した。これらの条約に共通するのは、「兵器の軍事的有効性よりも、市民への被害を防ぐことを優先する」という人道的な視点である。

市民による軍縮運動の展開

軍縮の推進力となったのは、国家だけではなかった。1950年のストックホルム・アピールは「原子兵器の絶対禁止を要求」する署名運動として世界中に広がった。1954年の第五福竜丸事件(ビキニ環礁でのアメリカの水爆実験による漁船の被爆)は、核実験の危険性を一般市民に強烈に印象づけ、翌1955年に広島で第1回原水爆禁止世界大会が開かれるきっかけとなった。ビキニ環礁はその後、核実験の歴史を伝える場として世界遺産に登録されている。

1955年にはラッセル・アインシュタイン宣言が発表され、「核戦争によって達成できる国家目的などない」と科学者たちが声明を出した。日本では湯川秀樹がこれに呼応し、1957年にはパグウォッシュ会議(科学者たちによる軍縮運動)が始まった。1980年代前半にはヨーロッパでINF撤廃を求める反核運動が起き、世界各国に広がっていった。

2010年にはアメリカのオバマ大統領が「核なき世界」の実現を唱える演説を行ってノーベル平和賞を受賞し、伊勢志摩サミットでは現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問した。同年、オバマ大統領とメドベージェフ大統領の米ロ首脳会談で新STARTが調印されたが、2023年2月にプーチン大統領がその履行停止を表明した。

2017年には核兵器禁止条約が採択された。この条約は核兵器の使用・開発・実験・製造を全面禁止するもので、「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」がその実現に大きく貢献した。しかし、日本政府はこの禁止条約に署名していない。アメリカの核の傘のもとにある日本は、「核なき世界」を掲げながら核抑止に依存するという難しい立場に置かれている。

現時点での核弾頭の推定数は、ロシア5,890発、アメリカ5,244発が突出しており、世界全体では12,523発にのぼる。この数字は、核軍縮が「理想」の段階にとどまり、現実の政治においては核保有が維持・拡大し続けていることを物語っている。

安全保障のジレンマ

なぜ、国家は互いに望まない核軍拡を続けてしまうのか。その構造的な理由を解き明かすのが「安全保障のジレンマ」という概念である。この概念は、ゲーム理論の「囚人のジレンマ」を国際政治に応用したものであり、軍備管理が難しい根本的な理由を教えてくれる。

囚人のジレンマと安全保障

安全保障のジレンマとは、次のような状況を指す。A国が軍備縮小を提案しても、B国がそれを信頼できるかどうかわからない。B国が本当に軍備を縮小するなら、A国も縮小した方がよい。しかし、もしB国が縮小しないのにA国だけ縮小すれば、A国は大きな不利を被る。その恐れがあるため、A国は縮小に踏み切れない。B国も同じ論理で動くため、結局どちらも軍拡を続けることになる。

これを米ソの関係にあてはめると、「軍縮・軍縮」の組み合わせが「協調による平和(最善)」をもたらすにもかかわらず、相互不信から「軍拡・軍拡」の「恐怖の均衡」という次善以下の結果に落ち着いてしまう。「最善手を打てなくなる」のは、情報量不足による相互不信が原因であり、この問題を解決するには互いの信頼関係を構築することが不可欠である。

核軍縮の交渉が幾度となく行われながらも常に困難を伴い、時に後退してしまう現実は、この安全保障のジレンマという構造なしには理解できない。軍縮は「善意」だけでは実現できず、「信頼の制度化」——条約の検証メカニズム、相互査察、透明性の確保——を伴わなければ機能しないのである。

まとめ

「軍備競争と軍備縮小」を学んだことで、単に「核兵器は危ない」という感覚的な理解を超え、なぜ核軍拡が起き、なぜ軍縮が難しく、それでも人々がどのように平和を追求してきたかを、構造的に説明できるようになる。核抑止論が「恐怖による平和」であることの意味、NPT体制の限界、安全保障のジレンマが生み出す軍拡のメカニズム——これらは、現代の国際政治を読み解くための基本的な枠組みである。世界終末時計が示すように、核戦争のリスクは遠い過去の話ではない。「核の傘」に守られながら「核なき世界」を訴える日本の立場の矛盾を、あなたはどのように考えるだろうか。

通常兵器の分野でも、軍備管理の試みは続いている。1996年に採択された包括的核実験禁止条約(CTBT)は、2024年現在も核保有国の一部が批准していないため発効していないが、核実験を道義的に抑制する規範として機能してきた。また1997年の化学兵器禁止条約は180か国以上が批准し、2013年のシリア内戦における化学兵器使用疑惑をめぐっては、国際的な調査と廃棄が実施された。

軍縮が難しいもう一つの要因として、軍需産業の存在がある。核兵器・通常兵器の開発・維持は、民間企業・雇用・地域経済と密接に結びついており、軍縮は経済的な反発を伴う。軍縮の政治経済学という視点は、「なぜ軍縮が遅れるのか」を理解する上で不可欠な観点である。こうした複合的な要因を踏まえると、軍縮は単に「条約を結べば進む」ものではなく、政治・経済・社会の構造全体を視野に入れた長期的な取り組みが必要であることがわかる。

核兵器をめぐる議論には、「倫理」と「安全保障」という二つの軸がある。倫理的観点からは、不特定多数の市民を無差別に死傷させる核兵器は、国際人道法の原則(戦闘員と非戦闘員の区別、不必要な苦痛の禁止)と根本的に矛盾する。一方、安全保障の観点からは、「核を持つことで戦争を抑止できる」という核抑止論が依然として多くの国家の政策を支えている。この二つの軸をどのように折り合わせるかが、核軍縮問題の核心である。一方だけを見て「核は悪だ」「核は必要だ」と断定することは、問題の複雑さを見落とすことになる。この二つの軸を行き来しながら自分の立場を考え続けることが、核の時代を生きる市民に求められる姿勢である。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-28