第1章 文明の成立と古代文明の特質

06_中国の古代文明

中国の古代文明

東アジアの風土と人々

東アジアとは長江・黄河流域を中心とするユーラシア大陸東部の地域を指す。多くの地域ではモンスーン(季節風)の影響を受けており、長江流域・朝鮮半島南部・日本では稲作が、黄河流域の黄土地帯では畑作が行われた。北方の草原・砂漠地帯では遊牧を生業とする遊牧騎馬民族が独自の国家を形成し、オアシスでは灌漑農業が行われた。東北部の森林地帯では狩猟を主としながら農耕も営まれた。黄河流域や長江流域の肥沃な平原地帯に中国文明(中華文明)が形成され、漢字・儒教・仏教・律令制度などを共通の文化要素とする東アジア文化圏が形成された。

中華文明の発生

中国文明は前6000年頃に黄河・長江流域に新石器文化が形成されたことから始まる。黄河流域ではアワなどの雑穀が中心であり、長江流域では稲作が中心であった。複数の地域で独自の文化が発展し、やがて互いに影響を与え合いながら中国文明の基盤を形成した。

仰韶文化と長江流域の文化

黄河中流域の仰韶文化はアワの栽培や豚・犬・鶏の飼育が始まった文化であり、彩文土器(彩陶)の使用で知られる。スウェーデン人のアンダーソンが河南省で発見した。半坡遺跡からは柱や炉をもつ竪穴式住居・墓地・農具・狩猟具が出土している。長江流域では人工的な水田施設をもつ集落も現れ、河姆渡遺跡からは稲やひょうたん・豆類・家畜の骨・漆器・高床式住居跡が発見されている。この遺跡は日本の縄文文化との関連も指摘されている。また良渚文化は縦長の玉製祭具である琮など多彩な玉器文化を特徴とし、墓と副葬品に格差が見られることから階層差が存在したと考えられている。屈家嶺文化では稲殻や陶製の彩色紡錘が発見されている。遼河流域の紅山文化は土器や玉器の生産が発達しており、竜をかたどった土器は後代に伝わって中華文明のシンボルとなった。

竜山文化と社会の複雑化

前3000年紀になると諸地域間の交流・移動が盛んになった。黄河流域には麦や羊がもたらされ、中・下流域で農耕文化が広がった。この時代の文化を竜山文化と呼び、黒陶や三足土器の使用で知られる。黄河下流域を中心に長江の中下流域、遼東半島にまで広がり、牛馬の飼育や大集落の形成が見られた。遺跡には大量の武器や戦死者の埋葬跡、城壁、支配者の巨大な墓が確認されており、政治権力が集中して階層差が拡大していたことを示している。四川盆地の三星堆文化では黄金製品やタカラガイが出土しており、広域的な交流の存在を示唆する。

殷王朝と周王朝の文明

前2000年紀に黄河中下流域では城壁をもった都市が形成され、多くの都市を統合して広域を王が支配する王朝国家が誕生した。中国最古の記録的王朝が殷王朝であり、その後を継いだ周王朝が後の中国の政治思想や社会制度の基盤を作り上げた。

殷王朝と甲骨文字

殷王朝(商)は前2000年紀に黄河の中下流域に存在した、現在確認できる最古の王朝である。河南省安陽県小屯村の殷墟は1928年から37年にかけて発掘され、殷の都であることが確認された。宮殿跡、人畜を殉葬した巨大な王墓、青銅器の祭器、象牙や玉類などが多数出土し、西域産の材料を加工した玉器やタカラガイも発見されていることから、殷は広域的な交易ネットワークの中心にあったことがわかる。氏族集団が連合して城郭都市である邑を多く従えた邑制国家を形成し、殷王は祭祀を行って神意を占いながら国家の重大事を決める神権政治を行った。この際に神意の記録に用いられた文字が甲骨文字(卜辞)であり、漢字の原型となった。王国維によって解読され、殷の歴史が文字で確認できるようになった。

周王朝と封建制度

陝西省の渭水流域におこった周は前11世紀頃に殷を滅ぼした(牧野の戦いで武王が紂王を破る)。都を鎬京(現在の西安付近)とし、華北一帯に支配を広げた。中国では王朝交代を「天命を革めて天子の姓が易った」と説明する易姓革命の概念があり、平和的な王朝交代を禅譲、武力によるものを放伐と呼んだ。周では「天命を受けた支配者」を天子と称した。国王の一族・功臣・地方の首長に封土(領地)を与えて諸侯とし、周王を本家とした祭祀を行わせて貢納と軍役の義務を負わせた。これを封建制度(「封侯建国」)という。西欧の封建制が契約関係に基づくのに対し、周の封建制は血縁関係に基づく点が特徴的である。支配階級は共通の祖先を祭る宗族を形成し、宗法によって身分秩序を維持し、上下関係を中心とする社会秩序と行動規範である礼が重んじられた。

春秋時代から戦国時代へ

周王朝は前770年に西北方の異民族(犬戎)の攻撃によって鎬京を失い、洛邑(現在の洛陽)に遷都した(周の東遷)。それ以前を西周、それ以後を東周と呼ぶ。東周は前半を春秋時代、後半を戦国時代と呼び、前3世紀後半まで分裂が続いた。

春秋時代と覇者の政治

春秋時代(前770~前403年)は孔子の編纂した「春秋」に由来する。黄河流域の有力諸侯は周王の権威を形式的に認めながらも、「尊王攘夷」(周王を尊び異民族を打ち払え)を掲げて諸侯との盟約を結んで覇者となった。春秋の五覇として斉の桓公・晋の文公・楚の荘王・秦の穆公などが知られる。前403年には晋の家臣であった魏氏・趙氏・韓氏が晋を分割して独立した。これは下剋上と呼ばれる実力主義の時代の幕開けを告げる出来事であった。戦国時代(前403~前221年)には周王が無視され、有力諸侯が王を称した。特に有力な7つの国を「戦国の七雄」と呼び、秦・斉・楚・燕・趙・韓・魏が争った。この時代に華夷思想(中国文明の優位を自覚し、周辺諸民族を夷狄として蔑む世界観)が形成され、「中国」という意識が芽生えた。

春秋時代から戦国時代への社会変化

春秋時代中期に鉄製農具と牛耕が普及し、農業生産力が大幅に向上した。鉄器による森林伐採の効率化で農地が増加し、木簡・竹簡に文字を記録することが可能になって文書による命令・情報伝達が容易になった。小家族の独立が可能になり、氏族がしだいに解体されて一夫婦を中心とする家族が「戸」として重視されるようになった。一方、乱開発によって華北の気候は乾燥化に向かった。戦国時代には諸侯が富国強兵策を競い、青銅貨幣が流通した。刀銭(斉・燕)・布銭(韓・魏・趙)・円銭(秦)・蟻鼻銭(楚)など地域ごとに異なる貨幣が使われ、邯鄲・臨淄などが商業都市として発達した。周の世襲的身分制度が崩壊し、個人の能力を重んじる実力本位の傾向が強まった。

諸子百家の思想

諸国が国力増強を競う中で多様な思想家が登場し、諸子百家と総称される。儒家の孔子(前6~前5世紀)は「論語」を主著とし、親への孝・兄や年長者への悌という家族道徳を基礎として、他人への親愛の情である仁の思想を唱えた。周代を理想とし「修身斉家治国平天下」を説いた。孟子(前4~前3世紀)は性善説を唱えて徳による王道政治と易姓革命を説き、荀子(前3世紀)は性悪説をとなえて礼による規律の維持を説いた(後の法家に影響)。墨家の墨子は万人に対する無差別で平等な愛(兼愛)と侵略戦争の否定(非攻)を説いた。道家の老子は儒家・墨家の思想を人為的な愛として否定し、自然の道に従う無為自然を説いた。荘子は価値の相対性と自然における万物の一体を説き、その思想は道教や禅宗に大きな影響を与えた。法家は信賞必罰と法による秩序維持を重視し、商鞅は秦の孝公に仕えて連帯責任・信賞必罰の改革を実施した。韓非は法と術策による社会秩序の建設を主張し、その思想は秦の統一に直接つながった。縦横家の蘇秦は6国を同盟させて秦に対抗する合従策を、張儀は秦と各国が同盟する連衡策を説いた。

まとめ

この単元で学んだ中国の古代文明は、黄河・長江流域における多様な文化の発展と統合という長いプロセスを経て形成された。殷の甲骨文字は漢字の原型として現代日本語にも受け継がれ、周の封建制や礼の概念は儒教思想の基盤となって東アジア文化圏に広がった。春秋・戦国時代に百家争鳴の形で花開いた諸子百家の思想は、孔子の儒教を中心に現代に至るまで東アジアの価値観を形成し続けている。この単元を通じて、現代の日本社会にある「家族を大切にする」「礼儀を重んじる」といった価値観がどこから来ているかを問い直すことができる。あなたが日常的に感じる価値観や行動規範は、どんな歴史的根拠のうえに成り立っているだろうか。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-05
参考資料・一次情報
  • 山川『詳説世界史研究』
  • 山川『世界史図録』
  • 各分野の教科書・資料集・一次資料