水爆
水爆とはどのような兵器であり、原爆とどう違うのか
水爆(水素爆弾、hydrogen bomb)とは、水素の同位体である重水素(ジュウテリウム)と三重水素(トリチウム)の核融合反応によって莫大なエネルギーを放出する兵器である。熱核兵器(thermonuclear weapon)とも呼ばれ、広島・長崎に投下された原爆(原子爆弾、ウランやプルトニウムの核分裂反応を利用)とは原理が根本的に異なる。原爆の威力がTNT火薬換算で数キロトンから20キロトン程度であるのに対し、水爆は数百キロトンから数メガトン、最大級のものでは数十メガトンに及ぶ。1キロトンはTNT1000トン、1メガトンは100万トンに相当するため、水爆1発で都市圏そのものを消滅させる破壊力を持つ。水爆の登場は、核兵器を「強化された通常兵器」から「人類文明そのものを破壊し得る兵器」へと質的に変え、冷戦期の恐怖の均衡と核抑止論の前提を形づくった。
水爆はどのような仕組みで爆発するのか
水爆の爆発過程は二段階に分かれている。①起爆剤として原爆(核分裂反応)をまず爆発させる、②原爆が発する高温高圧と強力なX線によって水素の同位体を圧縮・加熱し、核融合反応を引き起こす、という順である。核融合は太陽の内部で起きている反応と同じ仕組みで、軽い原子核が融合して重い原子核に変わる際に大量のエネルギーを放出する。水爆の設計はアメリカの物理学者エドワード・テラーとスタニスワフ・ウラムによって1951年に確立され、テラー=ウラム型と呼ばれる設計が現代の熱核兵器の標準となっている。
水爆の特徴は、燃料となる重水素を増やせば理論上いくらでも威力を拡大できる点にある。ソ連が1961年に北極海のノヴァヤ・ゼムリャ島で実験した「ツァーリ・ボンバ(皇帝爆弾)」は約50メガトンの威力を持ち、広島型原爆の約3300倍という史上最大の人工爆発となった。衝撃波は地球を3周したと記録されている。
水爆はなぜ開発され、どのような歴史を辿ったのか
水爆開発の出発点は、第二次世界大戦後の米ソ核軍拡競争にある。1949年8月、ソ連が初の原爆実験に成功すると、米国の核独占が崩れ、米国内では「ソ連に対する決定的優位」を取り戻すため水爆開発を急ぐべきだという議論が高まった。アルベルト・アインシュタインやロバート・オッペンハイマーら一部の科学者は人道的・戦略的観点から反対したが、1950年にトルーマン大統領は水爆開発を正式に承認した。1952年11月1日、アメリカは太平洋のエニウェトク環礁で初の水爆実験「アイビー・マイク」(威力10.4メガトン)を実施し、実験に使われた島を地図から消した。翌1953年8月、ソ連もセミパラチンスクで水爆実験に成功し、米ソはわずか数年で熱核兵器の時代に突入した。
イギリスは1957年、中国は1967年、フランスは1968年にそれぞれ水爆実験に成功し、NPT体制における「核兵器国」のすべてが熱核兵器を保有するに至る。北朝鮮も2017年に実施した6回目の核実験を「水爆実験」と発表しており、熱核兵器の技術拡散が現在も続いていることを示している。
第五福竜丸事件とビキニ環礁が水爆の歴史に残した意味は何か
水爆の非人道性を世界に知らしめた決定的な出来事が、1954年3月1日にアメリカが太平洋のビキニ環礁で行った水爆実験「キャッスル・ブラボー」である。威力は予想を大きく上回る15メガトン(広島型原爆の約1000倍)に達し、放射性降下物(死の灰)が風下に広範囲に拡散した。実験海域から160キロ離れた公海上で操業していた日本のマグロ漁船「第五福竜丸」が死の灰を浴び、乗組員23名全員が急性放射線障害を発症した。無線長の久保山愛吉は半年後に亡くなり、水爆実験の世界初の犠牲者となった。
この事件は日本国内で大規模な原水爆禁止運動の発火点となり、1955年8月の第1回原水爆禁止世界大会(広島)や日本被団協などの結成へと結びついた。国際的にも、1955年のラッセル=アインシュタイン宣言、1957年のパグウォッシュ会議、1963年の部分的核実験停止条約(PTBT)への道を開いた。ビキニ環礁は2010年に核実験の記憶を後世に伝える遺産として世界遺産(文化遺産)に登録されている。第五福竜丸事件は、水爆が単に「大きな爆弾」ではなく、無関係な第三国の市民にまで放射線被害を及ぼす「地球規模の兵器」であることを実証した事件であり、現代の核兵器禁止条約へとつながる市民運動の原点となった。
水爆の登場は軍縮条約と市民運動にどう影響したのか
水爆の登場とその非人道性の可視化は、戦後の核軍縮体制を形づくる原動力となった。1954年の第五福竜丸事件を受けて1955年に湯川秀樹らが呼応したラッセル=アインシュタイン宣言は、核戦争によって達成できる国家目的などないと訴えた。1957年には科学者による軍縮運動としてパグウォッシュ会議が発足し、以後の軍縮交渉に科学的助言を提供し続けた。条約面では、大気圏・宇宙空間・水中での核実験を禁じた1963年の部分的核実験停止条約(PTBT)、1996年の包括的核実験禁止条約(CTBT、未発効)が水爆の無限な大型化に歯止めをかけてきた。水爆の歴史は、技術の暴走と人類の自制が交錯してきた核時代の縮図であり、2017年の核兵器禁止条約へと続く長い道程の起点でもある。