第9章 国際政治の動向と課題

核なき世界

核なき世界

核なき世界とはどのような理念であり、なぜ歴史の転換点となったのか

核なき世界(a world without nuclear weapons)とは、核兵器を地球上から全廃するという理念である。2009年4月5日にアメリカのバラク・オバマ大統領がチェコの首都プラハで行った演説で公式のアメリカ外交目標として掲げられたことで、国際政治の中心的課題の一つとなった。オバマは「核兵器を使用した唯一の核保有国として、アメリカには行動する道義的責任がある」と述べ、「私が生きている間に達成できないかもしれないが、アメリカは核兵器のない世界の平和と安全を追求する」と宣言した。この演説は冷戦終結後に停滞していた核軍縮議論を再活性化させ、同年10月のノーベル平和賞受賞、2010年の新START調印、2016年の現職米大統領初の広島訪問、2017年の核兵器禁止条約採択へと続く一連の動きの出発点となった。一方で、2022年以降のロシアによるウクライナ侵攻で核使用が示唆されるなど、理念と現実の距離は依然として大きい。

プラハ演説はなぜ歴史的な意味を持つのか

プラハ演説の歴史的意義は、①アメリカ大統領が初めて「核兵器のない世界」を国家目標として公式に掲げたこと、②具体的な行動計画と結びつけられていたこと、の二点にある。オバマは演説のなかで、①新しい戦略兵器削減条約(新START)の米ロ交渉、②包括的核実験禁止条約(CTBT)の米議会批准を挙げた。さらに、③兵器用核分裂性物質生産禁止条約(FMCT、カットオフ条約)の交渉、④NPT体制の強化、⑤核テロ防止のためのグローバルな核物質管理、という課題を並べた。

このうち新STARTは2010年4月にチェコのプラハで米ロ首脳により調印され、配備戦略核弾頭を双方1550発以下に削減することが定められた。2010年には核安全保障サミットが初開催され、核テロ対策の国際協調が前進した。しかしCTBTの米議会批准とFMCTの交渉開始は今日に至るまで実現していない。プラハ演説は核軍縮への機運を生んだが、具体的成果は限定的に終わったというのが現在の評価である。

ノーベル平和賞と広島訪問はどのような意味を持つのか

プラハ演説から半年後の2009年10月、ノルウェー・ノーベル委員会はオバマ大統領に「核兵器のない世界に向けた並外れた努力」を理由としてノーベル平和賞を授与した。委員会は「今日の世界が必要としているのは、彼が表明したような態度と政策である」と述べた。大統領就任1年目での授賞は異例であり、「実績に対する評価」というより「理念への期待」としての性格が強かった。オバマ自身も受賞演説で「私の達成はあまりに小さい」と認めつつ、核軍縮の理念を改めて強調した。

2016年5月27日、オバマ大統領は現職のアメリカ大統領として初めて広島を訪問し、平和記念公園で原爆死没者慰霊碑に献花した。謝罪の言葉こそ述べなかったが、被爆者と抱擁を交わし、「核兵器のない世界」の追求を改めて誓った。広島訪問は被爆地・日本にとって大きな象徴的意義を持ち、核軍縮外交における日米の結び方に新たな段階をもたらした。

核兵器禁止条約と日本の立場の矛盾はどこにあるのか

核なき世界の理念を最も具体的な法文に結晶させたのが、2017年7月7日に国連で採択された核兵器禁止条約(Treaty on the Prohibition of Nuclear Weapons, TPNW)である。条約は核兵器の使用・開発・実験・製造・保有・移転・使用の威嚇を全面的に禁止し、2021年1月22日に発効した。推進に大きく貢献した「核兵器廃絶国際キャンペーン(ICAN)」は2017年のノーベル平和賞を受賞した。

しかし、核保有5か国(米・ロ・英・仏・中)はいずれも条約交渉に参加せず、署名もしていない。日本もアメリカの核の傘のもとにあることを理由に交渉に参加せず、署名も批准も行っていない。唯一の戦争被爆国として「核兵器廃絶」を訴え続けながら、核抑止に依存する現実——この立場の矛盾は、2024年に日本被団協がノーベル平和賞を受賞した際にも改めて国際社会に突きつけられた。日本政府は「現実的・実践的なアプローチ」として核兵器国と非核兵器国の「橋渡し役」を掲げているが、橋渡しを具体化するための政策的手段は限定的である。

核なき世界は現実に実現可能なのか、その障害と展望は何か

2022年以降のロシアによるウクライナ侵攻は、核なき世界の理念に深刻な打撃を与えた。プーチン大統領は繰り返し核使用を示唆し、2023年2月には新STARTの履行停止を表明、核軍縮体制は急速に崩壊へ向かっている。中国は核戦力を増強し、北朝鮮は核ミサイル開発を継続、イランの核開発も再び活発化した。2026年の世界終末時計は1分25秒前を指し、冷戦期をも下回る過去最短水準を更新している。

それでも核なき世界の理念が失われたわけではない。①核兵器禁止条約の締約国は増加し続け、②市民社会・地方政府・被爆者団体による核廃絶運動は世界各地で継続し、③学術界・宗教界・医学界からの核兵器非人道性の指摘も蓄積されている。核抑止論に依存する国々と、核兵器そのものを違法とする国々の間の対話をいかに再構築するか——ここに核なき世界の未来が懸かっている。理念と現実の溝は大きいが、その溝を埋める営みこそが現代の軍縮外交の核心であり、被爆国日本の果たすべき役割でもある。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-24