第9章 国際政治の動向と課題

戦略攻撃兵器削減条約(モスクワ条約)

戦略攻撃兵器削減条約(モスクワ条約)

戦略攻撃兵器削減条約(モスクワ条約)とはどのような条約か

戦略攻撃兵器削減条約(SORT: Strategic Offensive Reductions Treaty)、通称モスクワ条約は、2002年5月にアメリカのブッシュ大統領(子)とロシアのプーチン大統領の間でモスクワにおいて調印された米ロ間の核削減条約である。発効しないまま終わったSTARTⅡの後を受けつつ、2001年から2002年にかけて米国が戦略態勢を大きく見直す流れのなかで結ばれた条約であり、従来の軍備管理条約と比べて条文が大幅に簡素化されていることが特徴である。本文は5条のみという異例の短さで、米ロ関係の枠組みそのものを象徴する条約として位置づけられる。

モスクワ条約はどのような内容を定めたか

モスクワ条約は、米ロ双方が配備する戦略核弾頭を2012年12月31日までに1,700〜2,200発まで削減することを義務づけた。これはSTARTⅠの上限6,000発、STARTⅡの上限3,000〜3,500発をさらに下回る水準であり、数値目標としては野心的であった。しかし条約は「どの兵器をどのように削減するか」という具体的な方法を定めておらず、削減された弾頭の廃棄を義務づけていない。各国は削減した弾頭を貯蔵しておくことが可能であり、必要に応じて再配備することもできる余地が残されていた。検証規定についても独自の査察メカニズムを持たず、STARTⅠの検証制度が存続している間はそれを援用する形で運用された。条約には期限満了日(2012年12月31日)が設定されており、それ以降の義務は自動的に消滅する設計となっていた。

モスクワ条約はどのような背景から生まれたか

2001年9月のアメリカ同時多発テロ事件は、アメリカの戦略環境を大きく変えた。対テロ戦争が安全保障の中心課題となるなか、ブッシュ政権は核戦略についても「冷戦型の厳格な条約」から「柔軟な戦力運用」へと転換する姿勢を示した。2001年12月にはABM制限条約からの脱退を通告し、2002年に正式に脱退した。ミサイル防衛の本格的な開発に踏み出すための措置であった。同時にブッシュ政権は、戦略核についても米ロ双方に柔軟性を残す形での削減合意を望んだ。このアプローチは、削減目標を数字で共有するが、そこに至る方法や検証の枠組みは各国の裁量に委ねるという、従来の軍備管理の潮流からは異質なものであった。ロシア側も、STARTⅡ発効不能とABM制限条約脱退という環境のなかで、米ロ関係を維持する最低限の枠組みとしてこの簡素な条約を受け入れた。9.11後の米ロ関係は一時的に「対テロ戦争での協力」という共通の地平を得ており、この短い蜜月がモスクワ条約という軽装の合意を可能にしたともいえる。

モスクワ条約はどのような意義と限界を持ったか

意義としては、①米ロ関係が悪化しかけていた時期に、両国が戦略核削減について共通の数字を合意できたこと、②削減水準がSTARTシリーズよりも低く設定され、戦略核の「天井」を一段引き下げたこと、が挙げられる。限界は大きく三つある。①削減された核弾頭の「廃棄」を義務づけておらず、保管されたままの弾頭は再配備が可能であったこと。②条約独自の検証規定を欠き、事実上STARTⅠの検証体制に依存していたため、STARTⅠ失効後の検証継続が不確実であったこと。③戦略核以外の戦術核、非配備弾頭、運搬手段の多様化などは対象外で、軍備管理の空白が広がったこと。これらの限界は、条約の「軽さ」の裏返しでもあった。

モスクワ条約から新STARTへ

モスクワ条約は2012年末まで有効とされていたが、実質的にはその前の2011年に新STARTが発効することで役割を終えた。新STARTは、モスクワ条約が欠いていた厳格な検証規定を復活させ、削減の方法や通告義務を条約に書き込み、米ロ軍備管理を再び制度化した。モスクワ条約は、「条約の軽量化」が短期的な政治的合意を可能にする一方、制度としての軍備管理をもろくすることを示した例として理解できる。軍縮条約は数値だけで成り立つのではなく、検証・廃棄・通告といった「制度の厚み」があってはじめて機能するという教訓は、その後の新STARTの設計にも色濃く反映されている。検証規定を欠く「軽い」合意がそのまま長く続けば、相互の透明性は失われ、疑心暗鬼から軍拡が再起動する——安全保障のジレンマが示す構造を、モスクワ条約は条約の形で体現してしまったともいえる。

モスクワ条約を読み解く視点は何か

モスクワ条約を読むときの視点は、条文の「軽さ」が何を意味したかを立ち止まって考えることにある。5条の簡素な条文、検証規定の欠落、廃棄義務の不在——これらは単なる手抜きではなく、「軍備管理をあえて柔軟にする」という明確な政策判断の結果であった。ブッシュ政権にとってミサイル防衛の開発と新型兵器への投資の自由度を確保することは、戦略的優先課題であり、厳格な条約はそれを縛る可能性があった。ロシア側も経済的制約のもとで、低い削減水準に合意することには利があった。こうして生まれたのが「数値合意だけの条約」である。しかしこの軽さは、米ロ関係が悪化した瞬間に軍備管理そのものが空洞化するリスクを内包していた。新STARTが検証規定を復活させたのは、モスクワ条約の経験が「軽量化しすぎた条約は制度として脆い」ことを示したからである。モスクワ条約を読むことは、軍縮の数字だけでなく、軍縮の制度的厚みを読むことに等しい。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-24