第9章 国際政治の動向と課題

弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)

弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM条約)

ABM条約はなぜ「ミサイル防衛を制限する」条約だったのか

弾道弾迎撃ミサイル制限条約(ABM条約: Anti-Ballistic Missile Treaty)は、1972年にアメリカとソ連のあいだで締結された二国間条約で、相手国の弾道ミサイルを迎撃する防衛システム(ABMシステム)の配備を厳しく制限した。一般的な軍備管理条約が「攻撃兵器」を減らそうとするのに対し、ABM条約は「防衛兵器」を制限するという、一見すると直観に反する性格を持つ。この逆説は、核抑止という冷戦期の安全保障論理を理解することなしには解けない。

相互確証破壊(MAD)との関係はどうなっているか

冷戦期の米ソの戦略的安定は、相互確証破壊(MAD: Mutual Assured Destruction)という概念で説明された。MADとは、一方が先制核攻撃を行っても、相手の第二撃能力によって自国も確実に壊滅することが保証されている状態を指す。この「共倒れ」が保証されているからこそ、どちらの側も先制攻撃を選べなくなり、結果として核戦争が回避される——これが核抑止論の中核的な論理である。

ここで、ミサイル防衛システムが完成するとどうなるか。もしA国が相手の核ミサイルをすべて迎撃できる盾を持てば、A国は安心して先制核攻撃を行える。相手の第二撃が届かないからである。これは「MADの崩壊」を意味し、先制攻撃のインセンティブを一方的に高める。したがって、米ソはMADを安定的に維持するために、あえてミサイル防衛を互いに制限し合う必要があった。ABM条約が「防衛を制限する条約」として成立した理由はここにある。

ABM条約はどのような仕組みで防衛を制限したのか

ABM条約は、米ソそれぞれが配備できるABMシステムを厳しく限定した。当初は首都防衛地域とICBM発射基地の2か所に限って配備を認め、1974年の議定書でさらに1か所にまで縮小された。実際には、アメリカはノースダコタ州のICBM基地防衛システムを短期間運用したのみで早期に廃止し、ソ連はモスクワ周辺のA-135システムを継続した。条約は、①配備地点数の制限、②インターセプター(迎撃ミサイル)数の制限、③ABMレーダーの配備場所の制限、④海洋・航空・宇宙・地上移動型ABMの禁止、という多層的な制限で、事実上全面的なミサイル防衛網の構築を封じた。

条約の下で、米ソはSALTⅠ(同じく1972年に調印された攻撃兵器の制限条約)と組み合わせることで、攻撃力と防衛力の両面を同時に抑制する戦略的安定の枠組みを作り上げた。これが1970年代のデタント(緊張緩和)の軍事的基盤となった。

2002年のアメリカの離脱は何を意味したか

冷戦終結後、ABM条約は徐々にアメリカの戦略的負担と見なされるようになった。1990年代以降、北朝鮮・イランなど「ならず者国家(rogue states)」による限定的な弾道ミサイル攻撃への懸念が高まり、アメリカは本土防衛のためのミサイル防衛(MD: Missile Defense)整備を進める必要があると主張し始めた。2001年9月11日の同時多発テロ事件はこの流れを加速させ、ブッシュ政権は同年12月、ABM条約から一方的に離脱することを通告し、2002年6月に正式に離脱した。

アメリカの離脱は、①対ロシアの核抑止関係を前提とする戦略枠組みから、北朝鮮・イランなど多様な脅威への柔軟な対応を重視する戦略枠組みへの移行、②同盟国(日本・欧州)との統合的なミサイル防衛網の構築、③冷戦期の軍備管理条約レジームからの部分的な離脱——を意味した。ロシアはこれに強く反発し、その後の新型兵器開発(極超音速兵器、核魚雷、長距離巡航ミサイルなど)を正当化する論拠の一つとして、ABM条約からのアメリカの離脱を繰り返し挙げている。

現在のミサイル防衛との関係

ABM条約失効後の世界では、ミサイル防衛の配備に国際法上の制約は実質的に存在しない。アメリカは本土防衛のGMD(Ground-Based Midcourse Defense)、日本のイージス艦・PAC-3、欧州のAegis Ashore、韓国のTHAADなど、グローバルな多層防衛網を構築してきた。これらは「北朝鮮・イランの限定攻撃からの防衛」を建前に配備されているが、中国やロシアは「自国の核戦力を相対的に無力化する」ものとして警戒している。

ABM条約をめぐる歴史は、①防衛兵器であっても攻撃的不安定化要因になり得るという戦略論の教訓、②二国間で成立した安定枠組みが、冷戦後の多極化の中で維持困難になる構造的変化、③軍備管理条約が消えた後に新型兵器開発の連鎖が起きるという「脱軍備管理」の代償、という三つの論点を提示している。新STARTの履行停止(2023年)や中距離核戦力の再拡散への懸念と合わせて、ABM条約失効後の戦略環境の不安定化は現在進行形で続いている。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-24