同時多発テロ
同時多発テロはなぜ核軍縮の構図を変えたのか
同時多発テロとは、2001年9月11日にアメリカで発生した、民間航空機4機を利用した大規模テロ事件を指す。ニューヨークの世界貿易センタービル、ワシントン郊外のペンタゴンなどが標的となり、約3,000人が犠牲となった。アルカイダが実行したとされるこの事件は、国家ではない武装集団が超大国の中枢を直接攻撃できることを示し、冷戦期の国家間安全保障の枠組みを根本から揺るがした。核軍縮史においては、「核テロ」という新しい脅威の概念を主流化させ、「対テロ戦争」の論理で始まったアフガニスタン・イラク戦争が大量破壊兵器の規制問題と絡み合う形で、軍備管理の議題そのものを再編した出来事として位置づけられる。
同時多発テロの衝撃と「対テロ戦争」の開始
2001年9月11日、ハイジャックされた旅客機がニューヨーク・マンハッタンの世界貿易センタービル南北両棟とワシントン郊外の国防総省(ペンタゴン)に突入し、もう1機はペンシルベニア州に墜落した。ブッシュ政権は「新しい形の戦争」を宣言し、同年10月にアルカイダを匿っていたとされるアフガニスタンのタリバン政権に対する軍事作戦を開始した。これが対テロ戦争(War on Terror)の始まりである。
対テロ戦争は従来の国家間戦争とは異なる論理を持っていた。敵は明確な国家ではなく、国境を越えて活動する非国家主体である。戦争の終結条件も曖昧で、「テロ組織の壊滅」という定義しにくい目標が掲げられた。2002年のブッシュ大統領の一般教書演説では、イラン・イラク・北朝鮮を「悪の枢軸」と名指しし、これらの国家が大量破壊兵器をテロ組織に供与する可能性が強調された。対テロ戦争の論理は、国家と非国家主体の境界を越え、大量破壊兵器の規制問題と直接結びついていった。
「大量破壊兵器」を大義としたイラク戦争
2003年3月、アメリカとイギリスはイラクへの軍事攻撃を開始した。攻撃の大義として掲げられたのは、イラクが大量破壊兵器を保有し、テロ組織に供与する可能性があるという主張であった。しかし戦後の調査で、イラクには実際には大量破壊兵器計画の再開の兆候はあったものの、使用可能な大量破壊兵器は発見されなかった。戦争の大義そのものが揺らぐ結果となった。
イラク戦争は核軍縮論にとって複雑な影響を残した。一方では「大量破壊兵器を持つと疑われれば軍事攻撃を受けうる」という前例を作り、北朝鮮やイランの核開発動機を強める結果となった。他方で、国際社会が大量破壊兵器規制をより厳格に追求する契機にもなった。2004年の国連安保理決議1540号(非国家主体への大量破壊兵器移転防止の国内法整備義務)は、同時多発テロとイラク戦争の余波で成立した。対テロ戦争が核軍縮の議題を押し広げたといえる。
核テロ脅威の顕在化と新しい軍縮課題
同時多発テロの最も深い意味は、「核テロ」という概念を国際政治の主流に押し出した点にある。アルカイダが核物質を入手しようとしていたという情報は複数の国の情報機関によって確認され、核テロのリスクは仮説から現実的な脅威へと位置づけが変わった。
これを受けてアメリカのオバマ政権は2010年から核セキュリティ・サミットを開催し、世界各国の核物質管理の強化を呼びかけた。高濃縮ウランを使用する研究用原子炉の低濃縮化、放射性物質の国際的管理基準の強化など、NPTの枠組みを補完する新しい取り組みが進められた。ただし核保有国間の緊張が高まる中で、核セキュリティの国際協調も停滞しつつある。
同時多発テロは、核軍縮論を「国家対国家」の枠組みから「国家・非国家を包含する世界秩序」の議論へと押し広げた。この変容は核抑止論にも影響を及ぼす。核抑止は相手が合理的に計算することを前提とするが、自爆攻撃を辞さないテロリストにはこの論理は通用しない。非国家主体が核を保有すれば、抑止理論そのものが瓦解する。同時多発テロ以降の核軍縮は、この新しい課題とどう向き合うかをめぐる長い試行錯誤の歴史でもある。