第9章 国際政治の動向と課題

原水爆禁止世界大会

原水爆禁止世界大会

原水爆禁止世界大会はどのように始まったか

原水爆禁止世界大会とは、1955年8月6日から広島で第1回が開催された、核兵器の禁止と被爆者の救済を訴える国際集会である。戦後日本における核廃絶運動の中核的な場となり、以後は毎年8月の広島・長崎の原爆忌に合わせて継続的に開かれてきた。日本の市民運動から始まりながら、海外の代表団や科学者・政治家も参加する国際会議としての性格を持ち、核軍縮運動のひとつの国際的拠点となった。

第1回大会には国内から約5000人、海外から11か国の代表が参加したと記録される。大会は「原水爆禁止に関する宣言」を採択し、核兵器の禁止、核実験の停止、被爆者援護の三つを柱として掲げた。それまで個別に行われていた署名運動・追悼行事・反核集会が、被爆地で開かれる大規模な国際集会の形に集約された点に、この大会の歴史的意味がある。

第五福竜丸事件と杉並の署名運動はどのように起点となったか

世界大会の直接の起点は、1954年3月1日のビキニ環礁でのアメリカの水爆実験と、それによる第五福竜丸の被爆事件である。事件を受けて同年5月、東京都杉並区の主婦を中心とする「杉並区原水爆禁止署名運動杉並協議会」が水爆禁止の署名運動を開始した。署名運動は「買い物かご署名」と呼ばれ、主婦・教師・労働組合員ら一般市民を中心に全国へ広がり、1955年までに国内で約3200万人、世界で数億人の署名を集めたとされる。

杉並の運動は、既存の政治団体や労働組合が主導したのではなく、子育てや日常生活に直接関わる主婦層から始まったことに特徴がある。マグロからセシウムが検出されて食卓の安全が脅かされたことへの不安が、核実験禁止を求める政治的要求へと転化していった。市民の生活実感が核軍縮運動の出発点となった事例として、日本の戦後史でも注目される局面である。

この市民発の動きを受けて、1955年8月に広島で第1回世界大会が開催された。被爆10年を迎える節目に、被爆地で核廃絶を訴える国際集会を開くという象徴性が強く意識された。大会では原水爆禁止を訴える宣言が採択され、被爆者の救済を求める声が初めて組織的に国際社会へ発信された。

原水協と原水禁の分裂はなぜ起きたか

第1回大会の成功を受けて、同年9月に原水爆禁止日本協議会(原水協)が結成された。当初は超党派の運動として広範な支持を集めたが、1960年代に入ると冷戦下の国際政治の影響を受けて内部対立が深刻化した。焦点となったのは、ソ連の核実験をどう評価するかという問題であり、「いかなる国の核実験にも反対する」という立場と「帝国主義の核実験にのみ反対する」という立場の対立が生じた。

この対立の結果、1965年に社会党・総評系が原水協から離脱して原水爆禁止日本国民会議(原水禁)を結成し、原水協は共産党系が主導する組織となった。以後、世界大会は原水禁・原水協それぞれが別個に開催する状況が長く続き、核廃絶という共通目標を掲げつつ主催団体が並立するという構造が固定した。冷戦期の国際政治が国内の市民運動にまで分裂をもたらした事例として、政治史的にも注目される出来事である。

分裂後も、被爆者団体協議会や自治体関係者を橋渡しとして両団体の共催・合同行事が模索される場面は続いた。ソ連崩壊後は両団体の対立点も変質し、近年は核兵器禁止条約の成立とICANの活動を共通の枠組みとする動きも見られる。大会の開催形態は時代ごとに変化してきたが、被爆地で毎年核廃絶を訴える場を維持してきた事実自体が、戦後日本の核軍縮運動の継続性を示している。

軍縮史において大会が果たしてきた役割は何か

原水爆禁止世界大会は、国家間の条約交渉とは別の回路で核廃絶を訴え続け、被爆者の証言を世界に伝える国際的な場を提供してきた。ストックホルム・アピールで示された「市民による核禁止要求」を日本の文脈で具体化した運動であり、のちのラッセル・アインシュタイン宣言やパグウォッシュ会議とも連携しながら、核軍縮の国際的な世論形成に寄与した。

大会は分裂の歴史を抱えつつも、被爆者援護法の成立、核兵器禁止条約の採択、ICANへの国際的支持など、戦後日本の核政策と国際的な軍縮動向に影響を与え続けてきた。原水爆禁止世界大会の存在は、核抑止に依存する国家の論理に対して、市民と被爆当事者の側から継続的に異議を唱える場があることを意味しており、NPT体制の限界を指摘する側の論拠としても現在まで機能している。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-24