フランス
フランスは核保有国としてどのような独自の立場を築いてきたのか
フランスは1960年に核実験を成功させた第四の核保有国であり、NPT体制下で核保有を公認された5か国のうちの一国である。推定核弾頭数は約290発で、米ロに比べれば少数だが、独自の核戦略をもつ中規模核保有国として国際政治の中で特異な位置を占める。フランスの核政策は、NATOからの距離・太平洋での核実験・地域非核地帯条約への対応・CTBTの批准という複数の文脈で理解される必要がある。フランスの選択は、核保有を維持しつつ核実験禁止という限定的な軍縮規範には応じるという独自の均衡を示している。
1960年の核実験はどのような意味をもったのか
1960年2月、フランスはアルジェリアのサハラ砂漠で最初の核実験を行い、アメリカ・ソ連・イギリスに続く核保有国となった。ド・ゴール大統領のもとで進められたこの核開発は、冷戦下において米英に従属しない独自の安全保障を確立する戦略の柱と位置付けられた。フランスの核戦力は「フォルス・ド・フラッペ(打撃力)」と呼ばれ、アメリカの核の傘に全面依存しない国家安全保障の象徴となった。
1966年にフランスはNATOの軍事機構から脱退し、独立した核抑止力による安全保障政策を徹底した。2009年には軍事機構に復帰したものの、核戦力はNATOの統合指揮下に置かず、あくまで独立した戦力として維持する方針を保っている。これは、イギリスがアメリカと緊密な核協力関係を結ぶのと対照的な立ち位置であり、同じ核保有5か国のなかでもフランスは独自路線を明確にしてきた。
ムルロア環礁の大気圏核実験はどのような反発を呼んだのか
フランスは1966年から1996年にかけて、南太平洋のポリネシアにあるムルロア環礁とファンガタウファ環礁で核実験を繰り返した。1960年代から1970年代にかけては大気圏核実験も行われ、放射性降下物による環境・健康被害が問題となった。1963年の部分的核実験停止条約(PTBT)は大気圏・水中・宇宙空間での核実験を禁止したが、フランスはPTBTを批准せず、大気圏核実験を継続した。
南太平洋の諸国はフランスの核実験に強く反発し、オーストラリアとニュージーランドは国際司法裁判所(ICJ)に提訴した。1985年には核実験に反対する環境保護団体グリーンピースの船「レインボー・ウォリアー号」がニュージーランドの港でフランス情報機関によって爆破される事件(レインボー・ウォリアー号事件)が発生し、国際的な非難を浴びた。フランスの核実験は、核保有国と非核地域との間の深い対立を象徴する事件を生み続け、地域住民への被ばく問題は現在も補償をめぐる議論が続いている。
ラロトンガ条約への対応はどう変化したのか
1985年、南太平洋地域における核兵器の配備・実験・廃棄を禁じるラロトンガ条約(南太平洋非核地帯条約)が採択された。フランスは当初この条約に反対し、域内での核実験を続けたため、域内諸国との関係は悪化し続けた。しかし冷戦終結後の1996年、フランスはラロトンガ条約の議定書に署名し、南太平洋における核実験の継続を断念する姿勢を示した。
同じ1996年、フランスはムルロア環礁での最後の核実験を実施し、爆発を伴う核実験を全面禁止する包括的核実験禁止条約(CTBT)に署名・批准した。フランスはCTBT批准国であり、アメリカや中国がCTBTを批准していないのと対照的に、核実験禁止の国際的な制度には積極的に組み込まれている。地域非核地帯条約とCTBTへの姿勢の変化は、フランスが核保有を維持しながらも、実験停止という形で国際的な核軍縮規範に応じる姿勢を取っていることを示している。この転換には、核実験の反復が周辺地域との政治的関係を著しく悪化させていたという現実的な背景もあった。
フランスの核政策はNPT体制の中でどう位置付けられるか
フランスはNPT第6条が求める「核軍縮交渉を誠実に行う義務」を負う核保有5か国の一員である。推定290発という保有規模は米ロよりはるかに少ないが、弾道ミサイル搭載原子力潜水艦(SSBN)による第二撃能力を中核とし、独自の核抑止力を維持する方針を変えていない。核兵器禁止条約(2017年)には署名しておらず、核抑止を自国と欧州の安全保障の基盤とする立場を堅持している。
フランスの事例は、「核保有を維持しつつ、核実験禁止という限定的な軍縮規範には参加する」という中規模核保有国の行動様式を示している。この選択は、完全な核廃絶を目指す非核保有国の立場とも、核実験を含む戦略的自由を維持しようとする他の核保有国の立場とも異なる、独自の均衡点を体現している。欧州の安全保障環境がロシアの対外行動によって厳しさを増している現在、フランスの核抑止力はEUのなかでも再評価されつつあり、核軍縮の議論と欧州防衛の議論が交錯する焦点となっている。