第9章 国際政治の動向と課題

バンコク条約

バンコク条約

バンコク条約はどのような地域条約か

バンコク条約は1995年12月にバンコクで東南アジア諸国連合(ASEAN)加盟国によって採択され、1997年に発効した地域非核地帯条約である。正式名称は「東南アジア非核兵器地帯条約」である。東南アジア10か国(ASEAN加盟国)の領土・内水・領海・EEZ・大陸棚を含む広範な海域までを条約区域とし、域内での核兵器の開発・製造・取得・保有・輸送・実験・使用を包括的に禁止する。冷戦終結後の新たな地域秩序のなかで、ASEANが地域的自律性を制度化した文書として位置づけられる。

東南アジアはなぜ冷戦終結後に非核地帯を制度化したのか

東南アジアが1990年代に条約を制度化した背景は複合的である。①冷戦期にはベトナム戦争をはじめとした代理戦争の戦場となり、米ソの軍事的関与が強かったが、冷戦終結で大国の直接介入が後退し、地域自律性を形にする好機が生まれた。②1992年のフィリピンにおける米軍基地撤退は、地域における核兵器プレゼンスの可視的低減を意味した。スービック海軍基地・クラーク空軍基地の撤退により、条約区域内の常駐核兵器配置が実質的に解消された。③中国の南シナ海進出と海洋権益主張の強まりに対し、地域全体で規範的な枠組みを先取りしておく必要があった。④ASEAN WAYと呼ばれる協議と合意重視の地域主義が、加盟国拡大(1990年代のベトナム・ラオス・ミャンマー・カンボジアの加盟)に対応する統合的枠組みを要請した。地域の多様性を束ねる理念として、非核化は共通の最低合意点となった。

バンコク条約の特色はどこにあるか

バンコク条約の特色は、条約区域を陸域にとどめず海域まで拡張した点にある。①領海だけでなく排他的経済水域(EEZ)と大陸棚まで含めている。これは、東南アジアが広大な群島・海峡国家を含むため、海上交通路と海底資源を地域規範の対象に取り込む必要があったからである。インドネシア・フィリピンのような群島国家にとって、EEZの扱いは国家安全保障の核心に関わる。②核エネルギーの平和利用権(第1条3項)を明記し、原子力発電など民生利用を妨げない構造とした。東南アジア諸国は原発導入を検討する国もあり、平和利用の権利保障は地域発展との両立のために不可欠であった。③条約の遵守監視機構として東南アジア非核兵器地帯委員会を設置した。他方、条約区域にEEZを含めたことは、核保有国の艦船通航・寄港との関係で核保有国側の議定書署名を難航させる要因となった。

核保有国の議定書署名がなぜ進まないのか

バンコク条約の議定書は核5か国に消極的安全保障の保証を求めるが、署名・批准は長く停滞してきた。①米中両国は条約区域がEEZを含むことに懸念を示してきた。EEZにおける航行・上空通過の自由が制約されることへの警戒が、議定書署名の障壁となっている。米国は同盟国(フィリピン・タイ)への拡大抑止との整合性を問題視し、議定書の留保条項をめぐって調整が続いている。②核保有国間でも立場が分かれ、ロシアはEEZの扱いに関し条件を付け、中国は周辺海域をめぐる主権主張との整合を重視している。③南シナ海の領有権問題は条約の履行地域と直接重なる。中国が主張する「九段線」内の海域には、条約加盟国のEEZと重複する部分があり、議定書署名が主権問題と連動してしまう構造がある。議定書署名が実現しないまま、ASEAN側は核保有国と継続的に協議しており、東南アジアの地域非核化は制度として確立しつつも核保有国の公式な保証を欠いた状態が続いている。

バンコク条約は何を問いかけているか

バンコク条約は二つの問いを国際社会に突きつけている。①地域条約は国家領域にとどまらず、海域や海上交通路まで射程を広げるべきか。バンコク条約はEEZを含めることで「海まで含んだ非核化」の先例を作ったが、その広い射程は核保有国の利害と直接衝突した。領海・EEZ・公海という国際海洋法上の段階構造と、非核化条約の適用範囲をどう整合させるかは、海洋国家を含む地域非核化条約に共通する論点である。②地域条約の効力は核保有国の議定書署名に依存するのか、それとも非核保有国のみで地域規範を確立しうるのか。東南アジアは後者の道を選び、核保有国の署名を待たずに条約を運用している。この選択は、地域規範が国際規範を先導する可能性を示す一方で、核保有国の関与なくして地域非核化が完結しない現実も露呈させている。

バンコク条約は今後どのような役割を担うか

バンコク条約の今後の役割は、地域安全保障環境の変動に応じて再定義されつつある。①米中対立の激化と南シナ海問題の深刻化のなか、条約はASEANの「中立」や「対話」を制度的に支える規範的資源となっている。②北朝鮮の核開発が東アジア全体の核リスクを高めるなかで、東南アジアが非核規範を維持し続けることは、核拡散のドミノを食い止める防波堤の意味をもつ。③オーストラリア・英国・米国のAUKUS枠組みで原子力潜水艦がインド太平洋に配備される動きは、条約区域を通過する核動力艦の扱いとの関係で新たな論点を提起している。④ASEANは議定書署名を求める外交を継続しつつ、条約の実効性を地域協力の深化によって補っている。核保有国の署名を待つだけではなく、地域の実践を通じて規範を強化する戦略が採られている。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-24