イラン
イランの核開発疑惑はNPT体制をどう揺さぶってきたのか
イランは西アジアに位置する国であるが、核軍縮の文脈ではその核開発疑惑と2015年の核合意、そしてその崩壊過程が最も問われる。イランは1968年にNPTに加盟し、非核兵器国として条約体制の内側にとどまっている。しかし2000年代以降、ウラン濃縮活動が国際的な懸念を呼び、国連安全保障理事会による制裁、多国間交渉、核合意の成立と崩壊という複雑な経緯をたどった。イランの事例はNPT体制の射程と限界を同時に示す。条約の内側にいる国であっても、濃縮技術の進展を止めることは容易ではなく、合意を結んでもそれが政権交代で一方的に破棄されうる。軍備管理の脆弱さを象徴する事例である。
核開発疑惑と安保理決議はどう展開したのか
2002年、イランの反体制派組織がナタンズのウラン濃縮施設の存在を暴露し、秘密裏に進められてきた核関連活動が明るみに出た。IAEAはイランの査察を強化したが、イランは濃縮活動を「平和利用の権利」として正当化し続けた。NPTは非核兵器国にも原子力の平和利用の権利を認めており、濃縮活動そのものを一律に禁じているわけではない。しかし核兵器転用可能な高濃縮ウランを生産できる技術の獲得は、国際社会の警戒を招いた。
2006年以降、国連安全保障理事会は複数の決議を採択し、イランに対する経済制裁を実施した。制裁は金融・石油輸出・兵器取引の分野に広く及び、イラン経済に大きな打撃を与えた。しかしイランは濃縮活動を停止せず、2013年時点で数千基の遠心分離機を稼働させていた。安保理決議と制裁だけでは核関連活動を停止させられないことが明らかになり、多国間の包括的な交渉が模索された。
2015年核合意はどのような枠組みだったのか
2015年7月、イランと米英仏独中ロ(P5+1)は包括的共同行動計画(JCPOA)、いわゆる核合意を締結した。合意の骨子は、イランがウラン濃縮活動を大幅に制限し(濃縮度を3.67%以下、遠心分離機を5,060基以下に抑制)、IAEAの強化された査察を受け入れる代わりに、国連・米国・EUによる経済制裁が段階的に解除されるというものであった。
核合意は複数の点で画期的であった。①多国間の外交交渉によって一国の核開発を制限する仕組みが作られた点。②軍事行動に訴えることなく経済制裁と外交交渉の組み合わせで非核兵器国の濃縮活動を抑制しえた点。③IAEAの査察権限を通常のNPT枠を超えて強化した点である。合意の直後、イラン経済は制裁解除の恩恵を受け、原油輸出が再開されるなど、一定の正常化が進んだ。
2018年のアメリカの離脱は何を意味したのか
2018年5月、トランプ政権は核合意からの一方的な離脱を表明し、イランに対する制裁を再開した。離脱の理由として、合意の有効期限(一部条項は10〜15年で失効)、ミサイル開発への未対応、地域的影響力への懸念が挙げられた。しかし他の署名国(英仏独中ロ)は合意にとどまる姿勢を示し、アメリカの単独離脱という異例の事態となった。
アメリカの離脱を受けてイランも段階的に合意の義務履行を停止し、濃縮度を60%まで引き上げるなど濃縮活動を再開した。核合意は事実上機能しなくなり、イランは核兵器開発にさらに近づいた状態に戻った。この経緯は、多国間の軍備管理合意が一国の政権交代によって無効化されうる脆弱性を露呈させた。安全保障のジレンマの観点から見れば、合意による相互不信の解消は永続的なものではなく、政治的意思の変化ひとつで覆されうる。軍備管理には「信頼の制度化」と同時に、政権交代を超えた耐久性の確保が不可欠であることを、イランの事例は示している。