第9章 国際政治の動向と課題

アフガニスタン

アフガニスタン

アフガニスタンはなぜ核軍縮史の転換点になったのか

アフガニスタンは中央アジアに位置する内陸国であるが、核軍縮史においてこの国名は二度、国際政治の方向を大きく変える場面に登場する。1979年のソ連によるアフガニスタン侵攻と、2001年の同時多発テロ後のアメリカによるアフガニスタン攻撃である。前者は米ソ間のデタント(緊張緩和)を崩壊させ、SALTⅡの批准を頓挫させた。後者は「対テロ戦争」という新しい戦争形態を生み、核テロ脅威を軍備管理の議題に引き上げた。核保有国ではないアフガニスタンが核軍縮の歴史に深く関わっているという事実は、軍縮が国家間の二国間交渉だけで動くものではなく、周辺地域の紛争や体制変動と不可分であることを示している。

1979年ソ連侵攻はSALTⅡをどのように頓挫させたのか

1979年12月、ソ連はアフガニスタンの親ソ政権を支援するとして軍事侵攻を開始した。侵攻の半年前、米ソはウィーンでSALTⅡ(第2次戦略兵器制限条約)に調印していた。SALTⅡは戦略核の運搬手段の総数に上限を設ける条約であり、デタントの象徴とされていた。しかし米議会はソ連の侵攻に強く反発し、カーター政権は批准審議を無期限に停止した。条約は米ソ双方が政策上の遵守を宣言する形で事実上の効力を保ったが、法的な批准は最後までなされなかった。

SALTⅡの批准拒否は、単に一つの条約の不発効にとどまらない。1970年代を通じて積み重ねられてきた「軍備管理は米ソ関係を安定化させる」という共通認識そのものを揺るがした。批准拒否の翌年には米国でレーガン政権が成立し、核軍拡路線に転換する。デタントの時代は終わり、1980年代前半は再び核戦争リスクが高まる「新冷戦」の時代へと突入した。アフガニスタン侵攻は、米ソが築いてきた信頼の制度を一瞬で壊してしまう出来事として記憶されている。

2001年同時多発テロ後のアフガニスタン攻撃は核軍縮議題をどう変えたのか

2001年9月11日の同時多発テロの後、アメリカは実行犯とされるアルカイダの指導者を匿っていたとしてタリバン政権を攻撃し、10月にはアフガニスタン全土での軍事作戦を開始した。この攻撃は国家間戦争ではなく「国家対非国家主体の戦争」という新しい形態を伴い、核軍縮の議題にもう一つの次元を加えた。

それまでの核軍縮論は「国家が保有する核兵器をどう削減するか」に焦点を置いてきた。しかしアフガニスタンでの対テロ戦争は、テロ組織が核物質を入手し核テロ攻撃を行う可能性——核テロのリスク——を現実の脅威として提示した。NPT体制が想定していた「国家間の核不拡散」の枠組みだけでは、非国家主体による核物質の入手を防げない。ブッシュ政権が2002年に宣言した「大量破壊兵器の先制攻撃論」も、このリスクへの対応として提示されたが、核拡散を抑止するどころか、逆に各国に核武装の動機を与える結果にもなった。

アフガニスタンが示す軍縮と地域紛争の不可分性

1979年と2001年という二つの出来事は、性格も関与する大国も異なるが、共通点がある。いずれも核保有国が自国の安全保障観に従ってアフガニスタンに介入し、その帰結として国際的な軍備管理の枠組みが揺らいだ点である。ソ連の侵攻はアメリカの軍縮協調姿勢を破壊し、同時多発テロ後のアメリカの攻撃は核テロ脅威を軍縮議題に持ち込んだ。

安全保障のジレンマは、米ソ・米ロ間の二国間関係だけで作動するものではない。周辺地域で紛争が起こり、一方の大国が関与すれば、他方の不信感が高まり、軍備管理の信頼はたちまち崩れる。アフガニスタンをめぐる歴史は、核軍縮の進展が国際情勢全般の安定と結びついているという、当たり前でありながら見落とされがちな構造を突きつけている。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-24