第9章 国際政治の動向と課題

人間の安全保障

解説

人間の安全保障

人間の安全保障とは何か

人間の安全保障(Human Security)とは、国家の安全保障ではなく、一人ひとりの人間の生命・生活・尊厳を守ることを中心に据えた安全保障概念である。伝統的な安全保障が国家を守ることを主眼としてきたのに対し、人間の安全保障は個人を安全保障の基本単位とし、紛争・貧困・疾病・飢餓・環境破壊・政治的抑圧など多様な脅威から人間を守ることを目指す。冷戦後の国際社会が直面した内戦・人道危機・地球規模課題への対応の中から生まれた概念である。

UNDP人間開発報告書と概念の確立

人間の安全保障の概念を国際社会に広めたのは、一九九四年の国連開発計画(UNDP)の「人間開発報告書」である。パキスタン出身の経済学者マブーブル・ハクが中心となって執筆されたこの報告書は、安全保障の概念を「国家の安全」から「人間の安全」へと転換することを提唱した。

報告書は人間の安全保障を七つの側面から整理した。経済的安全(雇用・収入の保障)、食料の安全(食料へのアクセス)、保健の安全(疾病からの保護)、環境の安全(自然環境の保全)、個人の安全(暴力・犯罪からの保護)、地域社会の安全(文化的・民族的アイデンティティの保全)、政治的安全(基本的人権の尊重)の七分野である。この整理によって「安全保障」が軍事・国防の問題にとどまらない広がりを持つことが示された。

「恐怖からの自由」と「欠乏からの自由」

人間の安全保障の理論的支柱となっているのが、「恐怖からの自由(freedom from fear)」と「欠乏からの自由(freedom from want)」という二つの概念である。これらはもともと一九四一年のアメリカ大統領フランクリン・ルーズベルトの「四つの自由」演説に由来し、国連憲章前文にも反映されている。

「恐怖からの自由」は主に紛争・暴力・人権侵害から人間を守ることを指し、カナダや欧州諸国を中心とする「狭義の人間の安全保障」として強調されてきた。「欠乏からの自由」は貧困・飢餓・疾病など開発問題全般を包含し、日本などが推進する「広義の人間の安全保障」の軸となっている。この二つの自由は相互補完的な関係にあり、貧困が紛争を生み、紛争が貧困を深める悪循環を断つことが人間の安全保障の実践的な課題である。

人間の安全保障はどのように発展してきたか

一九九四年の概念提唱後、人間の安全保障は国際的な政策議論の場で急速に広まった。一九九八年には「リセウン宣言」でカナダとノルウェーが人間の安全保障のアジェンダを共同推進することを宣言し、「人間の安全保障ネットワーク(HSN)」が形成された。日本もこの流れに積極的に参加した。

緒方・セン委員会の報告書

二〇〇一年、国連のコフィ・アナン事務総長の呼びかけで「人間の安全保障委員会」が設置された。共同議長は元国連難民高等弁務官の緒方貞子とノーベル経済学賞受賞者のアマルティア・センが務めた。委員会は二〇〇三年に最終報告書「安全保障と自由の共存に向けて(Human Security Now)」を発表した。

報告書は、人間の安全保障を実現するための二つの戦略として「保護(protection)」と「エンパワーメント(empowerment)」を提示した。保護とは脅威から人間を守るための制度・規範の整備であり、エンパワーメントとは人々が自ら脅威に対処できる能力を培うことである。この枠組みは、援助をする側が上から守るという発想を超え、当事者の能力強化を重視する視点を明確に打ち出した点で重要な意義を持つ。

「保護する責任(R2P)」との関係

二〇〇一年には「介入と国家主権に関する国際委員会(ICISS)」が「保護する責任(Responsibility to Protect: R2P)」の概念を提唱した。R2Pは、国家が自国民を大量虐殺・戦争犯罪・民族浄化・人道に対する罪から保護できない、または保護しようとしない場合、国際社会がその責任を担うべきだという考え方である。二〇〇五年の世界サミット成果文書で全会一致で承認されたが、実際の適用をめぐってはリビア介入(二〇一一年)などで大国間の解釈が対立している。

人間の安全保障とR2Pは理念的に親近性があるが、R2Pが軍事的介入の正当化根拠になりうる点で論争的な概念でもある。国家主権を重視する立場からは、人道を名目にした介入への警戒感が根強い。

日本と人間の安全保障の関係はどのようなものか

日本は人間の安全保障の積極的な推進国として国際社会で知られている。その出発点は、一九九八年に当時の小渕恵三首相が「人間の安全保障」を日本外交の主要概念として位置づけたことにある。日本政府は国連に信託基金(人間の安全保障基金)を設立し、多くの発展途上国でのプロジェクトに資金を拠出してきた。

日本のODAと人間の安全保障基金

日本の政府開発援助(ODA)は、人間の安全保障を基本理念の一つとして組み込んでいる。二〇一五年に改定された開発協力大綱でも「人間の安全保障の推進」が明記されており、貧困削減・保健・教育・食料安全保障・防災などの分野での援助がこの枠組みで推進されている。人間の安全保障基金は一九九九年の創設以降、アフリカ・アジア・中東・中南米など七〇か国以上でプロジェクトを支援してきた。難民・避難民の社会統合、感染症対策、紛争後の社会復興など、国連機関が実施する人間中心の開発プロジェクトへの資金拠出が主な活動である。

広義説と狭義説の対立

人間の安全保障をめぐっては「広義説」と「狭義説」の間に理論的対立がある。カナダを中心とする狭義説は、対象を暴力・紛争などの「恐怖からの自由」に絞ることで政策的実効性を高めようとする立場である。欲張りすぎると焦点がぼけ、具体的な政策につながらないという批判がある。日本・北欧などが推進する広義説は「欠乏からの自由」を含む包括的概念として展開を主張し、開発・人権・平和の連携を強調する。

また、人間の安全保障が国家主権の制約や内政干渉の根拠に使われることへの警戒も根強い。中国やロシアは、R2Pや人間の安全保障を口実にした西側諸国の介入政策に批判的な立場をとってきた。人間の安全保障が真に普遍的な概念として機能するためには、これらの政治的緊張をいかに乗り越えるかが問われている。

現代における人間の安全保障の意義と課題

二十一世紀の国際社会は、人間の安全保障が想定するような複合的な脅威に満ちている。従来の国家中心的な安全保障概念だけでは対応しきれない問題が山積しており、人間の安全保障の視点が改めて注目されている。

SDGsとの連動

二〇一五年に採択された「持続可能な開発目標(SDGs)」は、「誰一人取り残さない(leave no one behind)」を基本理念とし、人間の安全保障の思想と深く共鳴している。貧困・飢餓・保健・教育・ジェンダー平等・気候変動対策など一七の目標は、人間の安全保障が整理した七分野と大きく重なる。SDGsは二〇三〇年を達成期限とした具体的な目標と指標を持つ行動計画であり、人間の安全保障の理念を実践的な政策目標へと落とし込む枠組みとしても機能している。

感染症・気候変動と人間の安全保障

新型コロナウイルス感染症のパンデミック(二〇二〇年〜)は、感染症が一人ひとりの生命と生活に直結する脅威であることを示し、保健面での人間の安全保障の重要性を改めて浮き彫りにした。ワクチンの国際的な偏在、医療体制の脆弱な国への支援、経済的打撃を受けた人々への保護など、人間の安全保障の課題が各地で噴出した。

気候変動も、洪水・干ばつ・海面上昇・食料生産への打撃などを通じて脆弱な人々の生存を脅かす安全保障上の問題として捉えられるようになっている。特に島嶼国や沿岸低地の国々では、気候変動が国家の存続そのものを脅かしており、「環境の安全」という人間の安全保障の一側面が切実な問題として立ち現れている。人間の安全保障の概念は、このような二十一世紀の複合的リスクに向き合う分析枠組みとして、今なお発展途上にある。

監修者 taisa68
最終更新日 2026-04-28